明日が知れない人には、成長という言葉はトンチンカンなものに聞こえると思う。
学んだからこれができるとかもっと素晴らしいものを獲得していこうかという動機は、頭の動機であってどちらかというと感じていることを麻痺させる動機ではないだろうか。
何かをするために必要な技術を得ることも学ぶというけれど、意識的努力とエネルギーを支払い、確実なものと交換するギブアンドテイクの学びとそうでない学びを区別して呼べないだろうか。
ただ取り去る学び。
結果的な変容はあれど、獲得ではなく余計なものをゼロに戻していく学び。
自意識ではなく、からだの自律性がおこす学び。
このために学ぶという引き換えはむしろ邪魔になるような学び。
どこか行った先に意味があるのではないということを受けいれるのが嫌なのは、なぜだろうか。今持つみじめさから逃げることはできない。
抱え込んだ認識がつくりだした命令を達成しようとすることを終わらせたときに残るのは、ただゼロなのではないだろうか。意味の強迫がなくなったとき、そのゼロに否定性はあるだろうか。