降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

運動性としての自己

「居場所」にいるとき自分があり、「居場所」にいないとき自分がないのであれば、自分というのは関係性のなかにある。そしてそのとき自分というものは、その関係性のなかでおこっている運動性のことを指している。そこにはどのような質の運動性があるのか。どのようなあり方の運動性があるのか。

 

 

うしおととら」でうしおと同じ学校の学生で、死んだ父親が妖怪化したため、自分はその父親から周りを守るために友達をつくらず、自分を捨てて生きているという話しがあったと思う。受動的に生きざるを得ないことによって娘の心は死んでいくのだが、父親はうしおによって倒される。父が成仏して娘とうしおの関係性は、そのままだと恩を受けたほうとしてあげたほう、みたいに変な上下関係みたいなことになりそうだが、うしおはそれを求めないためにわざと困らせるようなことをいう。それに対して彼女は最初は真面目に答えようとしたけれど、ふとうしおの意図に気付き「馬鹿ね!」といってうしおを叩く。この儀式で普段通りの関係性が取り戻されるとともに、支配される生き方を自分から撥ねのける力が回復したこともうしおに示している。停滞し、滞留する運動性が解放される。

 

 

その運動性には、かたちがないように思える。モノとしてあるのではなく、ただ運動性としてある。よって、自分にその運動性がおころうが他人にその運動性がおころうが運動性は運動性ということで、解放や必要なカタルシスがおこっているように思える。自分の悲願のようなものがあったとして、その達成は必ずしも自分によって成される必要がないようだ。

 


ゴーリキーパーク殺人事件という昔の映画があって、その最後のシーンをよく覚えている。不可解な猟奇殺人は、黒テンか何かの毛皮の密売がその背景にあったのだけど、最後にその捕まえられたテンがカゴから放たれる場面がある。数頭の黒いテンが原野に疾走していく。人にありがとうというわけでもなく、ただ走りあるべきところに戻っていく。あのテンの疾走が僕にとっての解放のイメージだ。自分という思考からも解放された他者としての運動性こそがむしろ自分の本体ではないかとも思う。自分に支配されることを終わらせた状態を求めている。

 


運動性を支配する自分とは、思考であって言語であって記憶であり、自動化したプログラム。そのプログラムは「自分」を作り出し所有する。と同時に、そのことによって運動の本来性が放棄される。

 


100万回生きたねこのとらねこが最後に「ああ、お前たちも立派なのらねこになったなあ」と子猫を見ながらつぶやくとき、とらねこの運動性は引き継がれている。死ぬことができず、終わることができなかった滞留は、実際はとらねこ自身のとらわれによって作られていた。最後に自分が自分の所有者となったとき、とらねこは自分が自由になったと思ったが、しろねこはそんなとらねこを認めない。俺は100万回も生きたんだぜといいかけて、とらねこは気づく。その自分が自分を固定化し、死に切れない苦しみをつくっていたのだ。「俺は〜」と言いかけてやめたとき、もうそこにとらねこはいなかった。ただ運動性があるだけだった。運動性は死なない。死に切れないという幻想はもうなかった。

 


今日は特に何かがある日ではなかったが、岩倉の畑にたくさん人がきていた。去年つくった竹の小屋のまわりにへちまを植えたり、人がわいわいとのびのび楽しんでやっている。その風景に見ているこちらの気持ちが満たされる。自分が本当に何かになる必要があるのだろうか。運動性は自分がどんなに疎外したところで関係なく自律しているのだから。

 

 

 

 


James Horner | Gorky Park (1983) | Trailer

 

 

100万回生きたねこ (講談社の創作絵本)

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