降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

生きている当事者

浦河べてるの家に見学に行った時に、一人の人に尋ねられた。あなたは当事者なのか、それとも支援者なのか、と。見学者だからどちらでもないと言うと怪訝な顔をされた。


後になり、自分は当事者だと思った。生きている当事者。そしてそれぞれの当事者には、それぞれの意識の向きがある。


以前お会いした方のお子さんがある遺伝的困難を持っていた。その方は専門職ではないのに、知りうる限りのあらゆる情報を集め、確かめていた。当事者には他にはない意識の向きと切実な追求がある。他がどうであれやらねばならないことをやる。そこまで圧迫を受けているともいえる。


僕の考えは、そのどうしようもない圧迫、生きづらさがそのまま創造のもとなのだという考え。やりたいことの裏に何がしかの苦しみの感受がある。人間の自由意思というなら、苦しみを逆手にとるというところにおいてあるのではないか。


たとえ感じていなくても、無自覚でも、背景にある苦の存在なく、ただニュートラルにやりたいとか本当にあるだろうか。こういう考えがあまり受けつけられないのもわかるけれど、ある程度以上の不条理な状況のなかに陥った、個というむき出しの脆弱性にとっては、多数者に流通する受けのいい理屈はもう割りがあわなくなる。


たまたま通り魔に娘が命を奪われた。穴を掘って自分もはまり死んでしまった。寮の塀の外にいこうとして鉄条網で深く足を傷つけ死んでしまったとかを受けとめる理屈はもうそこらへんにはない。


そういう人たちはただ不運な例外として位置づけられ、多数者は自分たちの幸福な神話への信仰にしがみつこうとする。しかし、無自覚であってもそれがそのまま少数者への抑圧になる。少数者、「例外」の人の苦を潜在的背景とする以外に何らかの幸せが表現できるだろうか。


どのような素晴らしいことでも、諸手を挙げて讃えられることはない、と思う。犠牲なく、ただいいだけのことなどないと考える。ただいいだけののことをどんどん増やしていけばいくほど、人の尊厳、重みは軽く薄っぺらになっていくと思う。決して侵せられないもの、自己の理屈に回収されないもの、この他者性への降伏が人が人を大切にしていく原点なのだと思う。