降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

自由を求めて 個人としての自立とコミュニティ機能

糸川勉さんから自給という視点をもらい、自分でも畑や田んぼをやりながら自給ということを考えてきました。

 
自給とは、節約とかお金を使わないことではなく、自分の必要とする自由や時間の質を自分で確保し、つくりだすことが趣旨だと思います。
 
糸川さんは国や巨大企業がつくった仕組みの理屈のなかでどうしようもなく生きることから「イチ抜けた!」ができることを農法とともに具体的に示してくれました。個として自立することができる。
 
 
しかし、個としての自立は、自分が動けなくなると機能しなくなるというどうしようもない側面を持っています。またたとえ主要な食べ物を自分でつくったとしても、味噌も醤油も油もつくってとなると大変で生活はどうしても制限も多くなる。全てを自分で得ることは難しい。
 
 
となると、コミュニティ機能が必要になってくると思います。コミュニティ機能があるということは、何かをゆだねられるということだと思います。パンは作ってもらえるとか、動けなくなると助けてもらえるとか、なんであれ。
 
 
何から何まで全て自給することはできない。要は、自分の必要とする自由や生き方が尊重され、制限されなかったらいいわけだと思います。
 
 
既存の大きな仕組みに何から何まで任せると自分の自律性まで奪われるから、そもそも自給という自律性をもとうとします。しかし個人が全ての自給をするのは難しいので、個としての自分が自分として尊重される人と人との関係性のなかで、ゆだねるところはゆだねるというのがいいのではと思います。
 
 
自由というのは、つくりだすものだと思います。つくりださないと無い。自分に必要な自由を自分に与えるとき、生きている。内的な自律性が動きだします。環境を整え、そして内的な自律性にゆだねる。自律性が動きだすようにいつも調整する。それはいつも過程でありながら、同時に到達であると思います。到達は過程のなかに、歩み方のなかにあると思います。「ゴール」にあるのではなくて。