降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

奪うこと 贈られること

哲学の本とか難しいのが読めないけれど、こういう対話は面白いし、こういうやりとりをいつもできたらいいなと思う。世間話的な話しはできないけれど、対話はしたい。「難しい話し」ではなくて、その人がどうでもいいことにしておけないことの話しが聞きたい。

 

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好きなことについては妥協しない場合が多いので、好きなことは何かをよく質問する。何も上手に説明してもらう必要は全くなくて、思いつくことをそのまま言ってもらえればいい。

 

こちらが勝手に学ぶから本人は自分が何言っているのか説明になってないと思って自分に困惑する場合もよくあるけれどそれで十分。意味不明、支離滅裂で問題ない。むしろ聞いたことあるようなまとめ方に無理に編集されてしまうほうが残念なぐらい。矛盾のまま聞きたい。どんなかたちであっても、感じていることをなぞってもらっていればそれでいい。その時、その探求は自律的であって生きもののように明確な方向性と意思をもってどこかに向かっている。その動き自体から学べる。

 

学びというのが狩りのようで、奪うことだという実感がある。悪いなと思っている。こちらは欲しいものをたくさん得ているのに、相手は一時的であれ困惑したりする。こちらが一方的に奪うだけにならないせめてものかたちが、相手の自律性が行きたい方向の手助けになるかたちできくということになる。それもこっちの勝手な理屈なのだけど。どこまでいっても自己正当化はできない。ただ任意で好意でやってもらうだけだ。

 

ギブアンドテイクというのは、バーチャルな観念上しか実際には成り立たない。実はお金でやりとりしようが、物々交換しようが、きれいに交換されることなどない。そもそも違うものが交換されているのだから、一方的な贈与を互いに任意でしているだけというのが実態なのだ。

 

バランスの崩れは常に生み出されている。ところがそれがギブアンドテイクとされて清算され、ゼロとされてしまうとき、どこかに歪みが蓄積されていく。実際でないことを現実としている歪みはどこにいくのか。力の弱いものに押しつけられ蓄積されていく。あるいは自分の心のうちに蓄積され被害者意識が人と自分を疎外していく。

 

奪っているというのは、贈りものによって成り立っているということでもある。ただただ贈られ、受け取っている。実態としては。