降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「おふくろさん弁当」で何がおこっているのか

鈴鹿滞在の後半は、アズワン・コミュニティの会社、おふくろさん弁当で働いている方にインタビューをさせてもらうことになった。コミュニティのことを全く知らない一般募集できた人も一緒に働くこの場所でどのようなことがおこっているのか。


アズワン・コミュニティでは、コミュニティ立ち上げ時に理想とやる気をもって人が人らしくある関係性をもった社会をつくろうとしたのに、やがて人間関係の軋轢が生まれてきてしまう現実に直面した。そしてこの問題はただそうやろうとする意図とか、やる気の強さだけの問題ではなく、人間関係のなかに避けようもなく深く内在しているものであり、その問題の根源に向き合わなければ人が人らしくある社会はつくれないということが理解された。


一人一人のなかに内在化し無意識化された「これはこう」「こうあるべき」「良い悪い」といったものがきっかけとなって引き起こす、自分でもコントロールできない感情的な自動反応を観察によって意識化していく体系が試行錯誤のなかでつくりだされ、時間をかけて身につけていけば基本的に誰でも自己観察をすすめていける環境が整えられた。コミュニティ内に自己観察を身につけていくためにスクールができて、段階的に自己観察、自己理解を深めていくためのコースができた。コミュニティの人たちは、このコースにそれぞれのタイミングで通っている。


人と人の関係性は一般に近いほど難しいと思う。外ではうまくやっている人もごく身近な人、感情的に近い人とはうまくいかないというようなことは往々にしてある。しかし、夫婦間のような難しい関係性であっても辛抱強くそこで何がおこって自分が何に反応しているのかを気づいていくならば、こう着状態を展開し、気持ちが通る関係性に移行していくことができる。お互いにそれぞれ自己観察をすすめていけるのならより進みははやい。


自己観察を身につける環境がつくられているコミュニティ内では、個々人は精神的に自立していて、あまり人の表面的な言動に自分が揺り動かされず、相手の気持ちの実際に向くため基本的には人と人は解きほぐされていく方向にいく。逆方向に戻らず、全体としても徐々にではあれ安定的に関係性が育っていく方向にいっているようだ。


しかし、スクールに行かないコミュニティ外の人には変化はおこっていかないのだろうか。おふくろさん弁当でのインタビューでコミュニティのことを知らないで入社した方にお話しを聞ける場をいただいた。聞けたのは数人ではあるけれども、おふくろさん弁当にある、失敗しても人を責めず、お互いが安心して気持ちを表現できる気風にふれることで、変化はおきるようだ。


自己観察を深めていくコースには出てなくても、おふくろさん弁当の人間関係のなかにいるうちに、自分の気持ちを自然と話せるようになったり、職場にいた感じで家に帰れば子どもとのやりとりも以前よりもいいようだという方もいた。以前より余裕をもって子どものあり方を受けとめられるようなことがおこっているという。


人が大切にされる気風が実態として確立されていれば、スクールにいくことによる変化とは違いがあるだろうが、人が職場で自分の気持ちを自然にいえて、心に余裕や充足感をもった状態になっていくということはおこるようだ。


叱責されず、年齢や役割にかかわらず思うことや意見がいえる。大切にされて、求めるなら家の事情まで相談にのって休みをくれたりする。以前人間関係のきつい職場から来た人などはその違いに当惑もあるが、その心地よさを感じ、安心していく。


子どもたちとの連帯感や共感をもってやる音楽活動にたずさわっていた人が、そこでなじみのあった盛り上がりや高揚とはまた別の質をもつ精神的な「充足感」をはじめて感じているという。それは何かをやることの達成感でもないという。高揚ではなく、どちらかというとひたひたとしたような感じ、しみじみとするような感じですかと僕がきくと、そのような感じだということだった。以前の職場とは「安心度が違う」という言葉もでた。


普通の職場でいちばん上の上司が「ああもうしんどい」とかもらしてしまえばその下全体が動揺するけれど、ここではそのような動揺はおこらないという。ああ、だったら飲みにでも連れて行って話しでもきいてあげるかというぐらいの感覚で受け止められる。失敗してもそれはそこで終わり。みんながフォローしてくれる。責任の追及がはじまったりしない。何かがあっても「おおごとにならない」。


アクシデントに対するみんなのフォローの対応力は大きく、なんだかんだとあっても最後はつじつまがあうようになんとなくできてしまうという。人と人との関係性が自由で、役割や規則、マニュアルにも縛られないため柔軟に創造性が発揮されるということなのだろうか。


強い安心感、満足感、充足感といったものが感じられるのは、そのようなものがなかったストレス状態の存在がそう感じられる前提としてある。当り前のことは、そのような強い感情をともなわない。


しかし、ここで感じられる今までなかったような「安心度」「充足感」と言葉になっているものは、そのようなものではないようだ。この言葉を出された方はコースに行っている人だったけれど、インタビューを終わりふりかえるなかで、そのような安定的な充足や安心の感覚は、自身のなかに内在化した「こうすべき」「自分は、人はこうであらねばならない」という強迫、恐怖に対する疲労から解放されたことによるのではないかと思う。「何かをやる」「何かになる」ことによって安心や充足が達成されるのではなく、内在化した強迫、恐怖をとりのぞくとき、生は何もしなくてもそのままで満ちているのではないだろうか。そのように思った。