降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

コミュニティとの距離

コミュニティに対しての関心は、個が生きる環境、個が自由である環境とはどのようなものかというところなので、とにかくコミュニティになればいいとか、コミュニティというもののほうを目的にする話しとはむしろ逆の立場になる。


どんな労働分配ができたとしても、生存だけ安定を保証されても、個としてのあり方をそれぞれが尊重できないならそんなところに行くよりひとりのほうがマシだ。


自分にとっては、それぞれの個が自由になり、縛らず生かしあうことが促進されることにおいて、コミュニティの意味がある。だからコミュニティとは、目に見えるかたちではなくて、関係性の実質のことを指すと思う。


あなたと私がいわゆる「利害関係」抜きの友人であることは、当人以外がつくった外側の指標ではなく、互いの関わりにおいて、与えあうことができる自由や尊重の実質に依存していて、友人であることは義務でも目的でもない。義務やら目的になってしまえば、それは友人だろうか? 付き合いたい気持ちの分だけ付き合う。それ以上でもそれ以下でもない。それでは寂しいだろうか。約束や契約やら担保をとりあうことは、関係性の実質を疎外していないだろうか。


しかし自由と尊重をあげて集まりを作っても事柄優先、かたち優先では結局縛りあいが増えるだけ。人より組織維持が先に来るようになってしまえばそこで終わり。解いていく、ということが必要だ。先入観と過去の習慣、経験でガチガチの構造になっている人と人が内在化してしまったものを互いにほぐしとっていく。その仕組みがあるところに、結果的に「コミュニティ」ができるのではないだろうか。


コミュニティは人の上にこない。人が大切にされ、より人らしくなっていく過程がただ促進される環境が調整され続ければいい。コミュニティは常に未完であって、過程を提供し得ることにおいてその本来の機能を満たすと思う。そのとき「完成した」とは、あるところでそこがコミュニティでなくなったということを意味するのではないか。

今滞在をしているアズワン・コミュニティの15年の実践の成果は多岐にわたるのだけれど、僕個人としては何を一番外に伝えたいかと考える。


考えは今後変わるかもしれないけれど、今思うのは、一人一人が互いに話し合えるようになりあい、互いを自由に育てあう土壌を確立していることだろうか。うまくいかないこと、試行錯誤があったうえで、現在は基本的にはコミュニティの人と人の関係性はより自由に、互いを大切に育てあう方向には進むけれど、もう後退はしなくなっている。


気風、文化が醸造されて、自律性が生まれていて、その自律性があれば、いちいち人がまたゼロから考え尽くさなくても関係性はメンテナンスされ、育つ。ある特定の菌を培養するように、環境を整え、培養された菌がある一定水準をこえるまで維持されると、菌の求め、菌の自律性にゆだねることでことが運びだす。あとは、その自律性が弱まるようなことをしない舵とりをしていけばいい。

生存だけ保証されたところで、個人が自由になっていかなかったり、個人としての尊厳がないがしろにされるような「コミュニティ」なら、1人のほうがマシだろうと書いたけれども、1人と思っていても、誰かが作ってくれた食べものやエネルギーやネットにお世話になっているのだから、1人というのはなくて、そこから見るなら誰もが必ず何がしかのコミュニティ機能のなかにいる。


そこをさらにおし進めるなら、全くの野生状態で1人であっても、自分の生存のために必要なものの全てを作り出すことはできない。人ではない何かが作ってくれたものによって、生存可能な環境が作り出されている。


生存可能な環境というものが、他者の営みによって作り出され維持されており、それを享受して生きている。そういう意味ではどのような時であれ、生きものはコミュニティ機能のなかにいると考えられないだろうか。


そう考えるなら、「コミュニティ」があったら、なかったら、という捉え方自体がどうなのかと違和感が強くなる。誰もが、既に、どうしようもなく、コミュニティ機能のなかにいる。


「1人で自由勝手に生きられる」のさえ、コミュニティ機能を享受しているから成り立っている。「1人」でも生きられているのは、(それは意図されず生まれたものかしれないけれど)コミュニティ機能の豊かさゆえに他ならない。

ならば、つまるところ人の求めが満たされるように環境を調整し作り出すということがどこまでもあるだけで、その枠組みが機能としてどう働くのかをなおざりにしてとりあえずコミュニティがあればどうこうなるのだという盲目的な「コミュニティ」本質論は、前時代的な全体主義、強制主義なのだと思う。


目に見える外枠、枠組みはあくまでもねらっている機能をはたすためにあり、それ以上ではない。外枠を作りだし、機能させる。そして機能不全がおこったり、副作用が出るなら直ちに替え、捨てる。この外枠の扱いに対して主客転倒がおこりやすい。機能させるための外枠が支配者になってしまうのだ。


外枠を使いこなす主体。ねらった機能が働いているかどうか、直接目に見えない関係性の実態を直ちに把握し、必要なくなれば捨て去れる感性が必要だ。実態は生きもの。刻々と変わる状態に対し、適切な環境と働きかけを提供する必要がある。



アズワンで作られたような土壌を、他でも作ろうとするなら、人と人の関係性がある程度まで育ったあと、どのようにすれば、さらにお互いを自由に、かつ大切にしていけるかの感覚、塩梅をつかんだ人の存在は必要だろう。外枠の作り方、使い方でいとも簡単に培養された菌は死んでいく。誰か1人のリーダーが導くというよりは、複数人がその感覚を持って補いあい、慎重に培養を続けていくということが必要なのかと今は思う。