降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

たそがれトークバックという催し

月に1回を目安にたそがれトークバックという名前で話しをする小さい集まりをやっている。今月は、12月ということもあり、これまでの活動を振り返ったりしながら来た人と話した。

 

たそがれは、意味を打ち消すもの。闇が近づいてくるなかでは、富者も貧者も健康さも病気も性も、はては人間と動物の区別さえ曖昧になり、見えにくくなっていく。意味という、未来からみた今日の有用性の支配を脇におく。

 


やさしさのなかで人は回復していくと思う。そのやさしさとは、操作できるやさしさではなく、意思して与えたり返したりとモノのようにやりとりすることができない。「やさしくする」やさしさではない。突き詰めたうえでの、どうしようもなさを知るやさしさだ。突き詰めたうえで、生きることは突き放されていることを知るやさしさだ。全ての人が存在として実のところみなしごであり、裸のまま、放り出されている。確かのように感じられた「幸せ」が次の瞬間、崩れ破綻していくあやうさといつも離れられない。

 


操作できるものとは、ギブアンドテイクの対象にあるもの。ギブアンドテイクで生を操作することができない。どこまで与え続けても、テイクされることは保証されていない。しかし,そのことを人の心は認めたくない。ギブアンドテイクをもって、生を乗り越えようとする。その行為が終わりのない労苦であったとしても。

 

操作への信仰。その盲目性が意味、明日に支配されるという牢獄をつくりだす。自分を含め、全てのものが操作対象になる牢獄だ。しかし弱きもの、終わりゆくものは、その弱さ、限界性ゆえにその牢獄をこえる契機を持てる。

 

対話のなかで、水俣で言われる「のさり」について意識がむく。全てはのさり、贈り物である、と人間のつくった公害さえ「受け入れた」患者の人たちとはなんだったのか。受け入れる、受容するとは、まるで自意識がやろうとしてやるような印象を受ける言葉だが、実際は突き放されていること、小さな存在であることを知らされるということではないのだろうか。「私」が意識的に認めるのではなくて、確かめられ吟味された結果、否応なく明らかになるような。

 


見とどけるという言葉がでた。何も「でき」ないが見とどける。

 

「何かをする」とはどういうことなのだろうか。人は「何かをする」ことができるのだろうか。そう思ったときに、「何かをすること」と「何もできないこと」は同じ軸の上にあることではなく、別々のものであることに気づいた。「何かをすること」が「何もできないこと」を打ち消すことはできない。
見とどけるとは、存在に対する共感なのだと思った。「何もできない」という全ての存在に対しての共感だ。