降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

明日という仮想

同意する人も少ないだろうけど、人は実態のところでは未来志向にはなれないと思う。未来は過去を投影して見えるものとなっているから。過去の意味を変えるものとしてその「未来」がある。悪い夢をみたから、もう一度その夢のなかでストーリーを変えたいというやり直しを期待させるものが「未来」なのだ。人は心の世界のなかで同じ物語をぐるぐるまわっている。

 

だから映画のタイトルでもあった「懐かしい未来」というのはとても妥当なネーミングだと思う。それは江戸時代にもどれとか、狩猟採集生活がよいとか、そういう意味ではない。心のなかにある物語をケアしていくようなことだ。

 

僕は「発展」とか「成長」とか「進化」とかそういう言葉は使わない。全く気にせずそれでいい人もいるし,それはそれでいいだろうけれど、これらがどんなときに使われる言葉かなと状況を考えてみるなら、これらは詰まるところ人を動員するときの言葉なのだと思う。あたかもそれは客観的状態のようであるけれど、吟味してみたとき、そのような偏りある言葉、価値観のバイアスをかけた言葉にする必要はないと思う。

 

これらの言葉は結局自己否定であることに気づかないだろうか。成長の一方には成長しない・できない自分があり、発展の一方には未発展の自分がある。好きなことを信じ,好きなように生きればいいけれども、僕が確かめてきた範囲では、そのように自己否定を内在させると余計今の停滞に留まる。また将来の停滞を約束する。行き詰まりは、意味の強迫によってつくられる。

 

「成長」という言葉がでてきた瞬間、自分は成長しているか、していないかの二つの認識を迫られる。「成長」した自分を想像する高揚は、その「成長」という言葉によって、「成長していない」状態に低められた自分によって感じられる。低められるからこそ「成長」した自分が素晴らしいのだ。このトリック。朝三暮四で「幸せ」にはならない。変な金融工学が駆使され破綻が約束された住宅ローンの仕組みみたいな話しではないかと思う。ごまかしでしかない。

 

否定にとどまることで、その状態が吟味され、虚偽が破綻する場合も少なくないかもしれないが、最初から好きこのんでそんなことをする必要もないだろう。つけとしての反動、リバウンドがくることはしないのがいい。

 

今書いているブログの名前はべてるから拝借した言葉を使った「降りていくブログ」だけれど、前のブログは「エピローグのなかから」というブログ名にしていた。心のなかの物語の外にはいかない。この意味の世界の実態、つまり心の世界の実態は、すでに終わっている世界なのだと思う。どこにもいかない。意味はない。意味とは未来からみた今日の有用性だ。そのようなものは、架空の設定なのだ。明日が永遠にあると仮定しているのがその虚構の核心で、それが一旦否定されたときには全てが成り立たない。

 

しかしそれでも明日を前提した意味の世界で生きていくのだが、その虚構の世界で生きていくとき、心は「かのように」生きていくのが妥当だと思う。飲み込まれず、支配されない。どのような「人生」にも「意味」があるというのは、裏返していえば、どのような生を通り過ぎようが変わりなく意味はないということだと思う。人はそのように平等だ。意味に心の重心をあずけすぎてはいけない。

 

そのようにすると後ろ向きになるかというとならないと思う。意味の世界に生きる限り根源的な苦しみがあるので、人はそれに対処せざるを得ない。他の強迫がなくなれば、根源的な苦しみに「耐えかね」て、むしろ全うな向き合いをしていくのではないかと思う。