障害があったり、自意識のない状態でも人間は生きていく。それを前提にしたサバイバルに関心がある。自分自身は一旦言葉や意味の世界に入ってしまったのだからその世界でも救われていく必要がある。
救われないものに気づけば、生きている間はそれをできるだけ救っていく。そのことによって生の質が変わって、より疲弊していかないだろう。
救われないものは言葉や意味の世界の獲得によって生まれている。マッチポンプなのだけど、文化を得てその上で脱文化していくのだ。不都合を打ち消していく。苦しいから仕方ないということと、それにそれぞれ取り組むことが結局自分の生の充実になるという理由から。
そして生きていくとき、自分で自分に必要な環境、媒体、裁量を与えることが重要になってくる。自分にとって、内的な動機が動き出す環境を調整しつくりだす。
内的な動機が求める環境は繊細なので、他ならない自分自身で環境を用意・調整できることが不可避になってくる。自らの自律性がこの世界で機能する必然性はここにある。
環境は動的なもので、内的な動機が動き出すためにはその度に調整され、再創造されていく必要がある。
最後どこにいくのか。たどり着くべき目的地はどこなのかというと、無いというが僕の考えだ。それは意味の世界で勝手につくりだしたものなのだから。ただ既に苦しみはあり、それをより根源的に救っていくことが生の充実になる。
救われていく感じは、たぶん、より気持ちの通りのいい、おだやかな状態になっていくのだろう。救われたものが最後に残した感謝の雰囲気が微妙に漂っている世界にいる。とむらわれた世界。ある意味、死の世界の一部をこちらに持ってきた世界だ。