降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ムヒカさん 「闘い」について

「「政治の世界では、彼らを分け隔てる必要があります。お金があまりに好きな人たちには、政治の世界から出て行ってもらう必要があるのです。彼らは政治の世界では危険です。(中略)お金が大好きな人は、ビジネスや商売のために身を捧げ、富を増やそうとするものです。しかし政治とは、すべての人の幸福を求める闘いなのです」

 

www.huffingtonpost.jp

 


ムヒカ大統領インタビュー - YouTube

 

ムヒカさん、正論を言っている人だなという印象だった。でも国内でもそこここの現場でムヒカさんに勝るとも劣らない発言と活動をしている人が沢山いるのに、そちらにあんまり注目がいってないとも思った。

 

 

このギャップは上の引用の最後のくだり「しかし、政治とは、すべての人の幸福を求める闘いなのです」のところにあると思った。「闘い」。たぶんムヒカさん大支持の人でも嫌うか、スルーするような言葉。

 

 

これは僕の見方に過ぎないけれど、今世界に残っている実質としてのやさしさ(人権といってもいいけれど)はこの世界に「当然」のものとしてある暴力に身をさらして反逆し、押し返してくれた人がつくってくれたものだと思う。

 

 

暴力は終わりなく世界を自分の都合のいいように変えるために押してくる。だから現状がもし少しでも維持されているということがあるならば、誰かが押し返してくれているということなのだ。

 

 

どこか遠くにではなく、今ここに暴力はあるということを認めてしまうと、向き合わなければならなくなる。暴力があると認めることは、自然とそこに加担していることを認めることにつながる。だから暴力の存在自体を否認してしまう。

 

 

暴力がここにあるということを認めるか認めないか。向き合うことが残念ながら闘いであるということを認めるか認めないか。

 

正当な評価以上の過剰な礼賛のなかに、ムヒカさん支持を利用して自分の暴力への加担の現実を見まいとする機制を感じてしまうことがあった。何もできなくても、せめて暴力に加担していることを認めてくれる人が多くなるほうがたぶん世界は少しやさしくなり,力を奪われた人に少しだけでもエネルギーがいくと思うけれど。

 

時々思い出すことがある。大学の頃、友人が強くなんかなりたくないと言っていた。なぜかというと,強くなるとデモいったりしなければならないからだと。僕はその意見に賛成反対という前に、その帰結の意味がわからなかった。でも本質を突いていたのだなと思う。必然なのだ。今は弱いからそれができない。よって闘わなくていい。しかし強くなりそれが可能になるならば間違いとわかっていることに責任を負わなくてはならない。そういう理屈。友人は気づいていた。