微生物は、自意識が直接命令やコントロールすることができない。増えろと命令しても増えないので、増やしたいなら微生物が活性化する環境を整えなければならない。微生物の特性に対して、適切な環境を整える。急激な環境の変質を起こすものを避けるとか、温度が低くならないようにするとか、適当なエネルギー源を切らさないとか。
微生物はあくまで自律的なものなので、自意識ができることは環境を設定するという間接的なアプローチしかない。
こころも同様だと思う。こころを自意識が直接コントロールしようとすると反動を生む。そして何よりエネルギー効率が悪いと思う。直接のコントロールをむりやり繰り返すと疲弊していく。
ここからは全てたとえ話しになるけれど、こころのエネルギーを増やしたいなら直接コントロールする発想は転換しなければならないと思う。自分のうちに住んでいる「微生物」の生態、自律性を中心に、主体にすえる。自意識は、主人が召使いを使役するように振る舞い、強制するのではなく、逆に微生物に仕える存在になる。主人はどちらかというと微生物のほうになる。
微生物が培養され、増えてくると微生物の自律性は増す。微生物の意思があらわれるかのように、日常の選択の際になんとなくこっちがいいなという感覚が出てくる。それは微生物が守られ、培養される方向に自然とつながっている。その感覚と同じくして、微生物をきちんと培養していると、生きているのが楽だという感覚が生まれてくる。
生きているこころとはそのようなものだと思う。過去の経験、知識をこえたリアルタイムの感覚。微生物の感覚がその現実に触れ、それが何であるかの指標を出してくる。そこにはゆだねられる信頼感がある。自意識というのは単なるプログラムであって死物だが、微生物を培養し、そこにゆだねるということによって、人は第二の感性を得ることができる。微生物の意思をまとうことによって、それまで自意識ができなかったことができるようになる。
微生物が自分自身のために生きようとする。そして働きかけてくる。その力に人は乗っかることができる。「こころのままに従えばいい」というのはここまできた状態ではないかと思う。そうすればエネルギーは自然にやってくる。そして微生物は、宿主だけにとどまらず、自分に必要な環境全体を守ろうともする。理性はここにあるもので、だから大学教授やら「専門家」ではない市井の人に非常に高い見識を持っていたり、誰よりも真っ当な感性をもっている人がいたりするのは別段不思議にあたらないと思う。
自意識を主体だと思えば思うほど、人は一時の高揚と引き換えに長期的には疲弊していく。自意識こそができると思えば思うほど、長期的には柔軟性を失っていく。
微生物を培養するには衝動のまま、抵抗のないことだけすればいいということではない。むしろ微生物を意識的に育て、その自律性を守ることには妥協のない現実との向き合いがいる。
「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」
自分の妥協で微生物を守り育てる枠組みを放り出した瞬間、「腸内環境」は変質していき、そこに住まう微生物も変質していく。ガンジーのセリフはここにつながってくるのではないかと思う。