降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

活動報告 チタチタ喫茶憲法教室

上京区のチタチタ喫茶で月に1度、憲法教室が行われている。

店の常連さんが弁護士さんだったことが契機ではじまって、今回で7回目。

 

チタチタ喫茶

 

 

昨日は、14名の参加。初めての方も多かったので、そもそも憲法がどのような文脈でできてきたのか、という話しから始まった。

 

封建制の時代、王や領主などの権力者は、勝手に徴収する税額を決め、また気に入らない人を捕まえたり裁いたりすることができた。民衆が力をつけ市民革命がおこると、市民は権力者に勝手なことをさせないための条項をのますことができるようになった。それが憲法ができてくる流れ。憲法は権力者が勝手気ままに権力を行使することを規制するもの。

 

憲法は押しつけだという論は、二重の意味で見当はずれだ。1週間でつくられたのは事実だが、天皇を処刑しない理由として成り立つだけの憲法であるために、世界各国の憲法の粋を集めたものになった。憲法は権力者を縛るものであるので、その憲法は政権にとって邪魔であっても国民にとって何ら不利益をもたらすものではない。またそこにもちこまれた思想は、明治以来の自由民権運動によって育まれたものが入っていた。

 

歴史の認識。
第二次世界大戦での死者は6000万人。そのうちの2000万人は日本が殺した人たちだという。戦後70年というが、大戦の70年前から日本は植民地を得るためにずっと戦争の道を選んできた。その反省はあるのか。

 

戦争法案、集団的自衛権と個別自衛権、72年政府見解、国連憲章とその51条の由来、一つ一つの位置付けと連関が説明されていく。

 

参加された方の一人が、戦争を体験された親族のお話しをシェアしてくれた。言葉の内容よりさらに、その真剣さやどうしようもない思いが伝わってくる。別の方は、善意の人たちの組織であるはずのものの裏側をみたときと、今の感じにどこか似たものを感じたという。この場を体感しに来たと言われる。

 

どうすればいいのかという問い。

 

できることとはなんだろうか。

 

僕は人ができることとは、自分を救っていくことだと思う。目を背けるのではなく、見たくないものを見ないための自己犠牲でもなく、自分を救っていくことに向き合う。

 

隣り合う。積極的に自分を救うために、少しの時間を自分と誰かが隣り合うために設定する。隣り合うこと自体が力づけとなる。エネルギーが減ることを選択する必要はない。エネルギーが増えることを通して人と隣り合うことができる。

 

一人の人としてあること、それが隣に伝わるだけでいいのだと思う。それで十分だ。自らの心の震えを伝えてくれれば、それが隣り合う人の心を震わす。共鳴した音叉が震えだすように、自分で動こうとしていなくても震えが流れ込んでくる。それはエネルギーだ。そのようにしてエネルギーを増幅させていくことができると思う。

 

限られたエネルギーの一部を割くという考え方ではなく、ここで満たしていくという積極的な考え方に転換するとき、回復しながら進んでいくことができる。

 

チタ憲、テーマやここをやりたいというリクエストも受け付けている。沖縄との関係などもいいのでは、と講師の岩佐さん。

 

沖縄は、戦争で人口の4分の1の人が犠牲になったという。内地の踏み台となり、昔から一貫して抑圧されてきた。なのに、今は沖縄こそが民主主義のあるべき姿を内地に見せ、むしろ導いてさえいないだろうか。人として生きることを守るということがどういうことか、むしろ内地に伝えていないだろうか。