降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

日常

先週は三重のアズワン・コミュニティにまた行ってきた。

前回行った時も書いたけれど、またブログに書くつもり。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

その間台風が来ていて京都は避難勧告が出ていたり、大変だったようだ。

畑に行ってみると、トウモロコシやシシトウとか、風で斜めになったものはあったけれど、総じて特に被害なく大丈夫だった。

畑は何人かで分割してやっているので、時々一緒の時間になる。
面積的には僕と一緒にやっている人の範囲が一番広い。

 

「草がどんどん生えてきていて広いと大変ですね」と言われる。

 

この畑は6年目になるけれど、ようやく作業に対してどう距離をとったらいいかがわかってきたように思う。作業量が割にあっても辛くならないでやれる。楽しいぐらいだ。夕方ふらっとでかけ、暗くなるまでやる。

 

辛くしていると、畑に行くことが自体に抵抗を覚えるようになる。

 

それは自分にとっては、外食と家の料理の関係でも同じように思う。自分が食べて美味しいと思うものを作っていれば、あまり外食に行かなくてもよくなる。

 

料理は面倒で苦手だった。しかし、料理への向き合いについて検討した結果、少なくとも自分だけでも美味しいと感じるものを作るのがいいという認識にようやくいたった。美味しく食べるためには工夫するべきだ。面倒だから美味しくないものを作るというのは基本やってはならない。

 

美味しいものをちゃんと作っていると、料理すること自体に抵抗感がだんだんとなくなっていく。家に帰るのがつまらないとも思わなくなるし、嫌でなくなる。この状態、この循環を維持するべきなのだ。

 

私が面倒だからの「私」と、美味しいものを食べて喜び、料理することに抵抗感がなくなる「私」は違う私なのだ。後者が本体。前者を本体と認識していると不具合が出てくる。極端に言ってしまえば面倒など考慮に値しない。前者は後者の私に対してひたすら淡々と尽くすべきであり、それ以上の存在ではない。後者が変わることによってしか前者は変わらない。

 

前回のエントリから大分あいてしまったが、前回の影と光の関係でいうならば、前者の私が影であり、後者が光だ。といっても光に実体はなく、影の調整によってキープされるよい状態が光なのだ。そして影はその光の恩恵を受ける。それが影の幸せのあり方だ。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

影があたかも自分が主人公のように、「我が我が」と勘違いすると間違いがおこる。影の都合にあわせたところで、影は幸せになれない。深い満足感が得られないので、より一層刺激や埋め合わせを求めたりするが十分に満足感は得られない。そもそも本末転倒だからだ。

 

たとえば、掃除をすることは、光(=よい状態、循環)に対して提供するものだ。気持ちが通るいい状態を提供する。自分に対して「提供してあげる」。これが自分に対する適切な距離感だと思う。捧げるのだ。影が影を直接幸せにすることはできない。

 

人は元気で適切な状態になる自律性をもっていると僕は考える。だからするべきこととは、いい状態、いい循環を邪魔するものを取り除くことだ。何かを付け加えることではない。取り除けば、自然の循環が自分をよくしていく。

 

それは掃除をするようなもの。生体に掃除欲というのはないと思う。それは二次的な求めだ。衝動とはちょっと違うところにあるため、衝動のままに行動していてもたどり着かない。体は習慣や環境に条件付けされているので、光に対して適切なことであっても面倒と感じたり、やりたくないと思ったり、抵抗があったりする。だからそれは大抵の場合、「わざわざやること」になるだろう。

 

影としては、よい循環をおこすにはどのように環境を整え、邪魔しているものを取り除けばいいのかをただ考え、工夫し調整を続けていけばよい。影は本体ではなく、よい状態が本体なのだから。

 

畑の話しが料理の話しになってしまった。