降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

トークイベント「人/動物関係から現代社会を考える」に行ってきた

トークイベント「人/動物関係から現代社会を考える」を聞きに京大のルネへ。80人がきていたそうで、ルネのこういう催しのなかでは一番人が集まったらしい。質疑応答のときも、いい感じの質問がとんだ。

 

薬や化粧品などの実験用にされる動物。基本的に人にしてはいけないことを動物に対して行っていいのかといったことをどう考えればいいのか等々。

 

僕の適当な考えでは、人間は自らを投影して世界を感じ理解するのではと思っている。感情は何重かの層となっていて、複雑なことを理解できる層と理解できない層がある。他人の悪口を言うと自分が言われてるように脳は反応しているともきく。

 

それぞれの層でそれぞれの反応、時には矛盾するような反応がおこっている。

 

戦争で人を殺すことが後に深刻な精神的傷となる。僕は人は自分が他人や世界に対してやったことを同時に自分が追体験していると思う。もちろん、やられたほうが被害が明らかに大きいのだけれども、同時に自分も傷つくこと、影響を受けることが避けられない。

 

宮沢賢治の『ビジタリアン大祭』では、ベジタリアンであるのは動物が人間に近すぎると感じるためなのであって、植物は生命であっても動物ほどその抵抗がリアルでないから食べられる、という感じで記述されていたように思う。

 

ビジテリアン大祭 (角川文庫)

ビジテリアン大祭 (角川文庫)

 

 

 

世界は自分として把握されていると思うから、動物であれ植物であれ、食べているのも自分。トークイベントのなかで、カニバリズムの話しもあったけれど、つまるところでは何であれ、人は自分を殺し、自分を食べていると思う。はっきりとは感じられないほど底のほうの層で。

 

人は複雑に構成された現実に適応するためにファンタジーを用いていると思う。だから人は厳密にはファンタジーのなかに生きていると思う。飛行機が飛ぶ理屈を知らなくても飛行機にのれる。それが飛ぶもの、乗れるものだといわれて、落ちたら死ぬのは知っているのに、本当に飛べるかを自分で確かめてなくても乗れる。

 

今は生物の専門家である人が、院生時代は本当に鮭が切り身で海を泳いでいると信じていたという事例もトークのなかで紹介されたが、基本ファンタジーのなかに生きているのだから、別段驚くこともないと思う。自然な思考だ。照らし合わされてないだけだと思う。

 

照らし合わせがされたら、認識は変わって他の人と共通の理解をするようになるかもしれないが、共通の理解が別に正しいわけでなくて、今のところの多くの人がそう思って行動しているだけのファンタジーになるということだと思う。

 

そのファンタジーのリアリティは、強めることができる。オンラインゲームのアイテムを高額の現金で買う人がいるように。モノとして実在しないものであっても欲しくなるし、本当にあるように感じられる。同じことを繰り返している世界があれば、それが本当だと思う。正月に人が一斉に全てを新しくしているのをみて、本当に世界が新しくなったように感じる。

 

強い実感、リアリティは、環境によって意識的にも無意識的にも構成される。強度はそちらが強いので、脳としては傷つきながら意識としては喜ぶとかいう状態がおこる。しかし、現実には脳は世界を自分の身体として把握し体験しているのであるから、あまりにえぐいことをやったり、痛みに無感覚になるようなことをしすぎると歪みや影響が出てくると思う。

 

太平洋戦争のとき、アメリカではマンガで日本人を猿として描いていたという映像をみたけれど、人として殺すのは自分が辛すぎるのだ。そうせざるを得ない。自分と違うものとせざるを得ない。だがそうしてもなおダメージは受けている。

 

慰霊祭をしたりするのは、一つは意味を再構築していると思う。意味というのはつくられるものであるので、そのようにして世界との付き合いかた、距離の持ちかたを調整している。

 

もう一つは、自分の傷つきに対してやっていると思う。自分他者や世界に対してやったことに対して自分のある部分が傷つくので、それを弔い、ケアする。

 

動物に対してやっていること、あるいはそれにリアリティが劣るにせよ、モノに対してやっていることでも自分に対してやっていると脳には感じられる。

 

ひどいことが繰り返されると自分がその痛みに対して無感覚になっていく。痛みに対して無感覚になると、喜びもまた感じにくくなる。また、それゆえに意識上は平気で人を傷つけたり、モノのように扱うようになる。

 

モノであれ、動物であれ、それらを人を別にするのが脳としては無理なのだと思う。こっちにはこっちの理屈、あっちにはあっちの理屈というダブルスタンダードが脳の底のほうでは理解できない。脳の底の層は、アミニズムの世界なのだと思う。

 

世界は自分であるが、世界(という自分)を傷つけること(たとえば生命のあるものを殺し食べること)によってしか自分は生きのびていけない。その矛盾、その狂気のなかに生きている。その傷つき、歪みに対して、無感覚になると自分も人も疎外する存在になっていく。

 

一方で、その狂気に対する罪の意識、そしてそのような存在でしかあれない自分であるにもかかわらず生かしてもらっていることが、他者に対するやさしさや世界に対するいたわりになると思う。それは同時に自分に対するやさしさでもある。

 

参考:世界を自分として体験するというのは、以前のブログでも書いていました。

 

kurahate22.hatenablog.com