降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

小山田徹さんのウィークエンドカフェに行ってきた

小山田徹さんのウィークエンドカフェに2日の昼と最終日の9日に参加させてもらった。ウィークエンドカフェは市立芸大のstill movingという展覧会の期間中行われていたもので、空き地にティピーがたって、だるまストーブでたき火が行われている。

 

 

 

小山田徹さんとたき火については以前の記事でも紹介したけれど、人に「何かをやらす」のではなく、交流が結果として「おこる」デザインで様々な場をつくられている。

 

 

昨日は8時前に行くと人でいっぱいだった。


いつも畑であっている方ともここで会うと違っていて、畑のほうはどうしても自分はホームで来てくれる方はアウェイになるけれど、ここだとお互いアウェイ。

 

以前、児童文学をやっている方と話していて、僕がなぜおとぎ話では主人公の女の子はまま母に育てられるのかと訊いたときの彼女の答えが今も記憶に残っている。

 

実の母、血のつながっている母であっても限界がある。もちろん母というのは象徴であって、世界のことをさしているのだけれど、生まれてきた子にとっては最初は母親が実際に世界でもある。

 

自動的に栄養補給されていた状態が奪われる。つまり、それはそのままでは世界に受け入れられていないということ。より苦しまないためには、泣くなり動くなり、自分が何かをしなければいけない。


生まれてきたときから、人は世界に完全に受け入れられることはなく、根底では誰にもホームがない。まま母はそれを象徴しているのだという。

 

ホームというのは本当はこの世界にないけれど、しかし希求があまりにも強いので家や土地を所有するなど代替的に補おうとする。でも、それを代替的なものである感覚を感じなくなっていくと、人に対する共感性を失う。

 

所有として代替的に得る「ホーム」は、言ってしまえばホームを得たような感覚を捏造して、根底的な不安を感じにくくさせている。だが、実際にはそれは消すことはできない。だから奥底でいつも不安がある。意識では気づかないかもしれないが、埋めきれないことに焦燥や苛立ちを感じ、さらに何かで補おうとする。

 

アウェイに行っているときの感覚。それが生の根底のリアリティ。たとえ貧富の差があっても誰もがその現実のもとを逃れることはできない。そこを共感しあうことは人の奥底を安心させると思う。

 

火は短い時間でモノを灰に帰していく。人はそこに同時に自分の一生を見ていると思う。燃焼しやがて暗闇のなかに消えていく。確実な「意味」を獲得し、そこにしがみついて自分を保とうとするとき、人は代償として共感性を失っていく。震える心を失っていく。

 

打ち捨てられたみなしごであることは、変えることはできない。否定し、見えなくするのではなく、そのバランスの崩れを認め、存在を共感しあうほうにより深い安心がある。

 

火は火としてあることによって、自ら人に生のありようの示し、同時に共感してくれている。救いきれぬ生を弔ってくれているのだと思う。


追記:ウィークエンドカフェ、ブログで紹介されていた方もいました。

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