降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

最近

ユルい井戸コアラ鳩詣というブログで言及いただきました。

 

自分のプロフィールとか、登録していたグループとかまるで忘れていたのでああ、そうだったのかとか、この時点でこうまとめていたのかとか思った。

 

cheechoff.hatenadiary.jp

 

ブログの著者のcheechoffさんは、身体論や哲学、マンガなど広範囲に書かれていて、またぼちぼち過去記事も読ませてもらおうと思います。


僕はブログぐらいならいいのですが、本がなかなか読めなくて、読んでいると緊張が高まってきてすぐ疲れ、他のことをしてしまう。本で読めるというのは、かなり面白いものか短いものかぐらい。人から借りた本がたまっていくのをどうしようかなと思う。

 

最近借りたナイチンゲールの「看護覚え書き」はしかし面白そう。

 

看護覚え書―看護であること看護でないこと

看護覚え書―看護であること看護でないこと

 

 

ナイチンゲールは患者がいる環境を整え、管理することを重要視していて、それをどこまでも追求しようとする。ホコリは濡れ雑巾でとる。よって家具は濡れ雑巾を使っても劣化しない艶出し加工がされていなければならないなど、彼女が求める環境をつくり出すために、非常に事細かで笑えるぐらい具体的な指定が列挙されている。

 

ナイチンゲールのこの強迫的とも思える追求は一体どんな動機によって生まれていたのか。そしてもし看護という領域を彼女が与えられなかったら、かなり生きづらい人だったんじゃないかと勝手な連想もする。


しかし少数者は、生きづらさを逆手にとって生きるのが効果的だし、少数者が生きていくときの考え方として、むしろ逆手にとるのが正攻法といっていいんじゃないかと思う。教科書的な順番は本末転倒で、明らかな問題が目の前にあって、そこからその問題の成り立ちを調べていくのが順番だろう。その意味ではナイチンゲールは正攻法で生きるあり方を拓いていった。

 

現実そのものではなく、意識せずとりこんだ現実の見方、考えの方自体が先に進むのを停滞させる。

 

自分の抽象的な性質を考えるとき、自分には〜がないので、〜を得るために〜しなければならないと考えるといつまでたっても上手くいかない。そう考えさせられること自体が永遠にそこで回り続けさせれる罠だ。

 

しかしそういうことを本当によく聞く。一番実近では、昨日の「〜には主体性がない。どうしたらいいか?」という問いだった。主体性のところに政治でも環境でも常識でも何をいれてもいいけれど、この問い方自体がいまある状態の無視を前提にしている。ないというありえない問いだから、答えも現実から離れたありえない答えしかでない。

 

意識を向けるべきは、自分が気づいていなくても既にそのような状態、自分が求めるような性質はどこかに小さく体現されているのではないかを探ること。主体性がゼロなら死んでいるし、人に返事したりしなかったりするのも政治、自分の部屋をトイレにしないのも環境保護

 

「求めるような性質や核になるような要素、エッセンスは既にあるとしたらどこにあるか」から始めると現実的になる。

 

オズの魔法使いで、ライオンは勇気を、ブリキの木こりは心を、カカシは脳みそを手に入れるためにドロシーとともに魔法使いに会いに行く。ところがオズはただのペテン師でペテンによって敵である魔女を含め全世界を騙していた。

 

実はドロシーたちは冒険の途中に必要なものは全て得ていたが、ただ偉大な魔法使いによって救われなければならないという思い込みによって、それらを確認せず、可能性を試しもせず排除していた。最終的にペテンが明らかになることによって、ドロシーたちは何も変わらないのに、自身に対する見方を変え、本来潜在させていた力を使うことができるようになる。

 

cheechoffさんのブログで言及される受苦、背負うものについて、見当違いかもしれないけど、僕は人は背負っている分のことができると思う。背負うものの重さは生きづらさでもあるけれど、生きようとする時その重さに対して向き合わざるをえない。

 

僕は、人が何かをやったというとき、余裕があったからできたのではなく、実のところはやらざるを得なかったからやったと考える。喜んでやったのか、嫌々やったのかは知らないがやらざるを得なかったからやったと思う。

 

そしてやれたことは、背負うものの重さ、つまり苦しみの大きさに比例したものになる。しかし、単純にある人は背負うものが重く、ある人は背負うものが軽いというようには思えないので、こう考える。

 

潜在的に同じ重さのものを背負っている。しかし、ある人はその受苦、受難によって、その重さが顕在化し、自分が自分として生きていくためには対処せざるを得なくなる。そして対処した分は、背負っているものが減っている。そしてなぜかその自分自身への対処であるものが、周囲に伝わり、周囲もまた重さに気づき、対処をし、背負うものを減らせる。

 

背負うものはただ自分が生きていくために向き合う。それが結果として多くに与える行為になる。