降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

循環をつくる

5月の岐阜読書会での発表の仕方について、主催者のしばやまさんとお話しする。僕は職業としてやってないので縛りが少なく、自分のなかですすめたいプロセスをすすめることを催しでやる。あるいは催しにする。

 

そこから生活費は得れないけれど、お金を得て何かのプロセスをすすめるためにまた得たお金を使うのなら、始めからプロセスをすすめることを催しにすればいいと思う。これは生活者としての催しの仕方だ。

 

生活者としての催しは、どうせやることを何かのついでにやる。大抵の場合、催しのための催しをやると、払うエネルギーが大きくなりすぎてしまう。やれる人ほどついやってしまって疲れているから、気をつけないといけない。

 

払うエネルギーの大きさに対して、この自分に戻ってくるものがどれほどあるのかを吟味しないのは投げやりだといえる。長いスパンでみて、余計なエネルギー浪費を省くために催しをするという認識でもいいのではないだろうかと思う。

 

しかし、ただけちけちエネルギーを貯めようとするのは良くないようだ。京都はいやすいけれど、岐阜なり、岡山なり、これはと思う催しなどは割と県外まで行ってみると収穫が大きいというのが去年の実感だった。その後につながる出会いがあり、関わりの領域が広がった。

 

去年の岐阜芸術フォーラムでの発表は、その時持っているものを一気に出して思い切りぶつけた。文字ばっかり、無理やりの量の発表だったけれど、手応えは大きかった。僕が提示しているのは、この現実、この詰まりはこう解けるのではという僕なりの解法のつもり。

 

実際は全く勘違いかもしれないが、僕はこう考えれば解けると思ったし、吟味し、そう確かめた。僕のその詰まりの取り方など、全く必要ない人もいるが、僕の解法が初めて会う人の困っていた詰まりをとることもある。

 

自分が困っているから考えるのであって、その上で自分なりに解いた結果が人に通じるというのは、プレゼントだ。通じなかったらそれだけだが、誰かに「大きく通じるとき」に出会うために、ずっと咀嚼し続け、考え続ける。

 

それで今まで生きているということは、その咀嚼と「大きく通じるとき」の獲得が割にあい、循環しているということだと思う。「自力」ではなく、循環が力をくれる。やるべきことは循環の工夫であって、循環さえ起こっていれば次につながっていく。

 

少しでも循環をつくる。それが少しの力をくれる。その力を使ってまた循環がおこる通路を整えていく。その繰り返しだ。