以前住んでいたシェアハウスの住人にアシモフの『ロボットの時代』を貸してもらった。
ロボットの時代 〔決定版〕 アシモフのロボット傑作集 (ハヤカワ文庫 SF)
- 作者: アイザック・アシモフ,小尾芙佐
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2004/08/06
- メディア: 文庫
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アイザック・アシモフ(Isaac Asimov、1920年1月2日 – 1992年4月6日)は、アメリカの作家、生化学者である。非常に成功した多作の作家であり、その著作は500冊以上を数える[2]。彼が扱うテーマは科学、言語、歴史、聖書など多岐にわたり、デューイ十進分類法の10ある主要カテゴリのうち9つにわたるが[3][注 1]、特にSF、一般向け科学解説書、推理小説によってよく知られている。
とある。
アシモフはロボット(工学)三原則を考えた人で、ロボット三原則とは、ロボットを作るにあたって、人間に対して安全でなければいけないこと、命令に従うこと、自分を守ることの3つを定めるもの。同じくWikipediaからコピペすると、
第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
というもの。
3つあるが、前のものが後のものより優先し、人への安全>人の命令>自己保存の順となる。「人を殺せ」と命令しても人への安全が優先されるのでロボットは人を殺せないなど、シンプルながらうまく穴がないようにロボットの行動の全体を統制するので、アシモフ以降のSFのロボットものに大きく影響を与えたとされる。
もちろん、この原則もアシモフの架空の設定なので、実際には複雑すぎる現実に適応することは不可能なのだけれど、逆にこの原則を逆手にとり、三原則にのっとったうえでその間隙をつくかたちで物語に予想外に展開させられるという機能もある。
アシモフの三原則は工業製品としてのロボットにあてはまるものだけれど、この三原則が興味深いのは、その裏への不安だ。人に危害を加え、人と取って代わり、人を支配する。ロボットの便利さや有能さは、人間の存在や意義もおびやかす。そこには得体の知らない力とそれへの畏れがある。
さておき、短編「お気に召すことうけあい」では、主人公の女性クレア・ベルモントのもとに、美しく知性のある男性ロボットがやってくる。クレアはどんどんと出世していく夫やその周りに見合わない自分に惨めさを感じている。夫も、クレアを今の自分に見合う女性として考えず、華やかで素養のあるグラディス・クラファンに心を奪われている。
「主人はあたしに頭脳があるなんて思ってないのよ、じつを言えば・・・あたしだってあるなんて思わないけれど」
「あたしには大物の奥さんは勤まらない、それなのに彼はだんだん大物になっていくのよ。あたしに立派な女主人になれって、ぼくのために社交界の仲間入りをしてくれって言うの、、あのグ、、グ、、グラ、、グラディス・クラファンみたいに」
鼻の先がみるみる赤らんでクレアは顔をそむけた。
アシモフ『ロボットの時代』
「 見合わなさ」を夫にも疎まれたクレアを、化粧の仕方から服の買い方、家具の整え方、パーティの開きかたまで、ロボットのトニイは長靴をはいた猫のように鮮やかに導いていく。
完璧に整えられた家でパーティを開き、意地悪なグラディス・クラファンの鼻をあかした場面は、映画プリティウーマンで娼婦だったジュリア・ロバーツがかつて彼女を侮辱した店員のところに今度は富豪として現れるのと同じだなと思った。
トニイは10日だけしかクレアのもとに滞在できず去っていったが、クレアは別人のように生まれ変わる。この作品を書いた後、アシモフのもとには若い女性からおびただしい数の手紙が寄せられ、そのほとんがトニイに憧れをよせる内容であったとのこと。
ロボットものとは何かを考えていくと、モノに「心」があるか、そして人にとって自然とは何かという問いかけに行き着くと思う。ロボット自体というよりも、モノの不思議さ、モノが持っている人間をこえた可能性、自己保存への固執からの超越、神聖さ、等々。
「お気に召すことうけあい」で表現されるトニイの美しさ、優しさ、知性、次々とクレアの現実を変えていく力がこれらに該当すると思う。
「心」と言っても、自意識だけのことではなくて、人間を超えたところの心であって、それが何かというと生きている自然の摂理そのもの、エッセンスを表現するもの。そこへの憧れは多分、人が永遠に持ち続けるものではないかと思う。
その憧れの背景には、かたちあるものの限界、生きものであることの限界、この自分であることの限界と悲しみ、裏返しの惨めさがある。それらの限界をこえた自然の驚異に憧れ、羨望し続ける。有能な人、美しい人をみて感嘆し、自分もそうなりたいと思う。
「ああ、憎いのはあのひとじゃないのよ。」と彼女はうめくように言った。「自分なのよ。あのひとはあたしが、そうありたいと思う理想像よ。とにかく外側は・・・でもあたしにはああなれない」
アシモフ『ロボットの時代』
能力や美というのは、自然の創造物。人は人がつくったものに憧れない。実際は人がつくったものが、自然の神秘、魔法を体現しているように見えるからそれに憧れているのだ。自然に憧れている。
その力はたとえば、お金や名誉をもたらす力の源泉でもある。ハウツーをみてそれを取り入れようとするとき、人はスキルではなく、その力を得ようとしている。興奮し、高揚するのは実は成果に興奮したり高揚したりしているのではなく、原始的な感覚で感じているその驚異の力と同一化する、あるいは同一化するかもしれないという錯覚からもたらされる。
ロボットとは、息を吹き込まれた土くれであり、それは実は人間そのものを表現している。しかし、自意識は自分を生命それ自体や自然のそのもの(そしてそれがもつ驚異の力)と同一化させたいので、自分がロボットであることは受け入れられない。
へたなロボットものは、人間の素晴らしさとロボットの足りなさを対比させ人間に勝利させようとする。ロボットは永久に人間になれないというその乖離を絶対的なものとして描く。しかし、それはあがきだ。薄々本当の実態を知っているからこそ、不安の反動としてそのようなものは生まれくる。
ロボットものの醍醐味の一つは、ロボットのもつドライで透徹した現実認識が、物語の展開場面で発揮されるところではないかと思う。クレアは、全てはトニイがくれたもので自分はやはり何も変わらないと不安になるがトニイがそれに対してこたえる。
「だれにせよ華ばなしい孤独のなかで生きていくことはできません。」とトニイは小声で言った。
「わたしはこうした知識を人間たちから授けられました。あなたにしろ、だれにしろグラディス・クラファンのなかに見ているものは単にグラディス・クラファンではないのです。彼女は金や社会的な地位がもたらすものにおぶさっているのです。彼女はそれを疑問に思ったりはしない。あなたもなぜそうしないのです?
・・あるいはこんなふうにお考えなさい。ミセス・ベルモント。わたしは服従するように作られている。しかし服従の程度を決めるのはわたし自身です。
わたしはあなたに従うようには、彼女に従う気にはなれません。とすれば、あなたです、わたしではありませんよ、ミセス・ベルモント、こういうことをしているのは。」
個人的にはセリフの後半はメロウ過ぎで、ロボットじゃなくてこれは人間だろと思うのだけれど、厳密にすると物語にならないということで仕方がないのか。「うしおととら」のことを友人と話していたときに「妖怪が喋るわけないじゃんね」とばっさり言われたが、その通りで妖怪は本質的に言葉や交渉がきくような存在ではないのだが、そこは変えないと仕方がない。
なんにせよ、何を描いたところで人間は人間しか書けない。だからロボットも人間だし、妖怪も人間なのだとは思う。
実は自意識こそがロボットなのだ。構造があり、限界があり、過去の堆積を基盤とし、いつも自然に置いていかれ、取り残されている。だからこそ一層に自然の無限さ、永遠性、創造性に憧れ、同一化しようとする。それが物語のなかでは人間に憧れるロボットとして表現される
ロボットものでも面白いものは、ロボットの型にはまった限界性と同時に、モノとしての「わたし」が自然、無限さ、永遠とのつながり、摂理の現れとどのような関係性をもっているのかという探求がされ、その可能性を示唆する奥行きをもたされていると思う。小鳥の世話をするラピュタロボットのように。
人でないモノであって、かつ人的な意思をもった働きをするものに、「かさこじぞう」の地蔵のような存在があるし、人としてというよりは、人並み外れた能力自体を人化したものは、桃から生まれた桃太郎などがあると思う。
昔話に出てくる擬似人間的存在は、明らかに人間より自然のほうに近い。意図して人に似せてつくられたロボットは、地蔵や桃太郎よりさらに境界的な存在で、限界をもった構造としての側面と自然としての側面の両面の揺れ動きをもつ。