降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

岐阜読書会の発表原稿の「はじめに」 水道管のようなもの

岐阜の読書会での発表原稿の「はじめに」の部分を転載します。

 

発表内容は、去年行った岐阜芸術フォーラムの発表の修正版をもとにしつつ、ヴィゴツキーの発達の最近接領域や、三重のアズワン・コミュニティの体験などを少し加えようと思っています。

 

このテーマで関心ある人がいたらどこでも発表や話し合いなどしたいのでお声がけいただきたいですが、A4で10枚ぐらいの量で文字だけとか、特に学問的根拠なしでこう思ってるだけということで、なかなかそういうもの好きな人もいません。岐阜の読書会の皆さんに感謝します。

 

発表はそれ自体で考える機会になり、またその経験で自分も変わっていきます。自分のなかで何かのプロセスがおこりはじめることやるのが回復にとって重要だと思います。

 

そのプロセスがおこるためには、環境を調整する必要があるので、そういう意味で自給という、自分の暮らしの外枠を自分で調整するあり方が重要になってくると思います。

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はじめに 


 回復という言葉に馴染みがあるでしょうか。この言葉は一般的には病気であったり、何か明らかに普通でない状態から元に戻るときに使う言葉かもしれません。

 

ですが、「健康」や「普通」と呼ばれる時であれ、そうでない時であれ、僕は人はいつも回復に向かおうとしていると思うようになりました。そのような回復をイメージできるでしょうか。

 

ある人はそれを「成長」というかもしれません。僕も最初はその「成長」という言葉を使っていましたが、そのうち使うのをやめました。理由は二つあります。一つは、言葉の使われ方は個々人の自由で様々ですが、実際おこっていることがなんなのかをよく見ていくと「人格の成長」というものはないなと思うようになったことです。同じ現象を別の捉え方で説明できる。そしてもう一つがその言葉、イメージを使うことによる弊害です。「成長」という言葉、イメージを使うことによって、無駄に力が入ったり、かえって状態の滞りが起きやすい。

 

ある言葉は、その言葉の次に自然につながる言葉を求めます。別の言い方をすれば、ある言葉や概念を使うことによって自分の考え方が無意識に誘導されてしまう。そう結論づけざるを得ない状況を生む。

 

僕は、一つ一つの言葉は水道管のようなものであればいいと思っています。水を通すための管が必要と関係ない方向にねじ曲がっていたり、出口が詰まっていれば実際の用には役立たず、むしろ現実を混乱させる。

 

一方で、本当にそうなのか、曲がってないのかを確かめて言葉をつなげていくと、ある言葉は次につながる適切な言葉、水道管を自然と呼んでくる。それはパズルのピースの断面がそこにつながるピースのヒントになるのと似ています。確かめたものをきちんとつなげていけば、ヒントもまた新しく生まれてきます。
 


考え方とは、一つ一つの水道管がつながった通路だと思います。入り口から入ったものを出口まで滞り少なく送り届けるようにする。現実に起こる出来事は多様でコントロールできない。

 

出会った現実に対して、今の自分が消化不良をおこし、障害や停滞を生むなら、通路のあり方を点検し、通路の詰まりをとっていく。あるいは水道管を取り替え、通路のあり方を変えていく。

 

単純に言えば、それを生きていく間続けていくわけです。外の現実が自分のイメージ通りになることは難しいかもしれません。

 

ですが、それはその現実と出会って消化不良をおこしている自分の通路の詰まりをとる機会です。その現実、たとえば生きづらさとの出会いをもって、ただ通路を整えていく。いつまでも続く問題と刻々と変わる現実があって、老いていく自分もあればそれは終わりのない作業です。

 

通路の通りがよくなれば、その分元気になり、持っている力もわいてくるというだけです。でも、それで十分ではないでしょうか。どこかに行かねばならない必要もない。

 

 生きている間、その人なりの詰まりへの向き合いがいつも残されています。無視すれば辛くなっていく。だから詰まりをとるための必要な対処を編み出していく。それが実のところの自分の喜びであり、充実ではないでしょうか。
それを「成長」とか「自己実現」などと大げさに言う必要もないと思うのです。

 

 生きていくときに通路の流れが悪くて気持ち悪いのなら、それをただ取り除いていく。僕はそれが回復だと思います。だから生きていれば終わることもない。自分の「中」の詰まりもあれば、自分の周囲、社会や世界にある詰まりとの向き合いもあるでしょう。だから、ただずっと回復の過程にあります。

 

 ずっと過程にあることが生きることなら、その過程のあり方をより不幸せでないものにしていく。

 

遠い先の「成長」や「自己実現」に直接向かおうとして意味があるかどうかわからない艱難辛苦を盲目的に自分に課すのではなく、外と自分の現実を吟味し、現実に向かう自分にとってのほどよさを調整をしていくことが、実質的により不幸せでない状態をつくる。

 

終わりない道中、完全にコントロールできない道中ですが、道中へ向き合い方には調整がききそうです。旅の仕方といえるかもしれません。

 

こうしたところで、最終的な「成功」や「達成」につながる何の保証もありません。道中を吟味し、ほどよいものに調整する。そして結果はまかせるだけ。将来を放棄しているようにもみえるかもしれませんが、でも刹那主義にはなりません。

 

生きることは、つなげ、またつなげていくことなので、ほどよい今は、次につなげるなかにしかないからです。そもそものところに目を向けてみると、高をくくって鈍感になる「安心」、概念上にしかない「安心」ではなく、実際の詰まりからくる不具合や不安に繊細に対してケアすることが生きものの自然なありようではないでしょうか。

 

 オンとオフという言葉がありますが、生きものは本当に「オフ」になっていたらすぐやられると思います。「オフ」であっても、それなりに「オン」である。人が人為的につくった、反動が大きすぎるような過剰な「オン」があるために、同じく過剰な「オフ」が必要になるのではないか。

 

それならば、「オン」であり「オフ」であるような時間を自分で自分に対してデザインし、提供することができるのではないか。それが僕の試みです。

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転載終わり
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「試み」という言葉は、アズワンの「やさしい社会の試み」からもらいました。

「成長」や「自己実現」については、このブログの初投稿『「成長」しない』でも書いていたのでかぶるところも多いですが。

 

kurahate22.hatenablog.com