降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

アズワン・コミュニティに行ってきた 認識の地味な吟味

鈴鹿アズワン・コミュニティというところに行ってきた。

 

コミュニティでは、どのようにしたらお互いに束縛やなく対立なく、親しさを育てていけるのかを14,5年とずっと試行錯誤されてきて、今その手ごたえがだんだんと感じられてきたとのこと。

 

人と人が対立するときに、お互いに誤解や思い込み、状況に対する決めつけがある。それをとっていくにはどうしたらいいのか、というところで、それをすすめていく手法が工夫されている。

 

最近、大阪や京都などでも哲学カフェというのがされていて、そこではたとえばお金とはとか、社会とはなど、あるテーマを来た人たちが話しあうのだけれど、アズワンではそのようなことをじっくりと継続的にやっている。

 

カフェフィロ:哲学カフェ

 

 

僕がいったときは、自由とは、社会とは、嫌いとは、味とは、自分とは、など問いが提示され、20分、30分ぐらい、自分がそう思っているものが実際のところ本当にそうなのかを吟味をしていきました。答えを出して終わりではなく、いつまでも吟味を続ける。本当にそうか、実際にそうかというふうに。これを複数人で6日間とか集中的にやる。

 

この地味な吟味を6日間もみんなで続けるというようなことをやっている人はなかなかいないけれど、それでもやってみると自分がそのことに対してどのように思っているのかが意識され、それが相対化される。そして感じ方が変わる。

 

座禅、瞑想のような、いわゆる精神的なワークでもなく、スピリチュアルな修行でもなく、ただしつこく吟味していくことで物事に対する感じ方を変えていけるというのは、地味ながら画期的な発明ではないだろうか。感じ方を変えるといっても、人に言われた何かを無理やり信じこむのではなく、自分で吟味することで変わるのだから、副作用も無さそうだ。

 

感じ方というのは、自動的なのだけれど、自分の現在の認識がまずフィルターとしてかかったうえでそれが決まる。そのフィルターは、言ってみれば誤解もある適当なものだけれど、現実との明らかな齟齬が実感されるまで割とそのままになっている。Aという刺激に対するBという反応を延々と繰り返す。

 

吟味することによって、矛盾や現実とのズレが意識化されてくると、認識が反転するということはなくても、感じ方が変わっていく。怒りや嫌悪感といったことも変わっていく。刺激Aに対して、反応がBからB’になったり、Cとかになったりする。

 

この地味なワークをアズワンの人たちは、継続的にやっている。何年もずっとやっている。このことによって、相手の思うことは相手がそう思うこと、自分が思ったことは自分が思ったことにすぎず、別に実際ではないという距離感がもてる。すると自動的な反応として出てきた怒りとか嫌悪感などが、大分違ってくる。そしてまたそういうものを感じた時も、それが自分のどこからくるのかを吟味していこうとする態度ができてくる。

 

その態度がまわりにあると、言いたいことがいえる、おさえないようになる。安心して言える。正直に言っているのを聞いて周りがピリピリするようなこともあるそうだけれど、それが後をひかない。気の通りがよくなっている。

 

気の通りという言葉は僕が当てはめた言葉だけれど、アズワンの人たちはこの気の通りの部分を大事にしているように思えた。自分でおさえこまないで、流れていくようになれば、それが人を元気にしたり、もっと自由にしていく。

 

アズワンのある人が、「イライラしてはいけない」の「いけない」という我慢が余計に悪い状態を招くという感覚をもっていたのもさすがという印象。現実ではなく、「こうしなければいけない」が実際にはストレスを生んでいたり、状況を余計にややこしくしている。

 

全員に会ったわけではないが、アズワンの方々は概して自然体で、普通。明にも暗にも「自分たちはこうしているからこうなんですよ。あなたも!」とか言わない。正しいことをやらなければではなくて、そうしたほうが現実に自分と相手を大切にできたり、長いスパンでみて自分がよくなったり、楽になるからやる。思考や概念、頭からのものではない、いたって自然で健康なあり方だなと思う。

 

モノやエネルギーの循環を大事にしている考え方は割と多いと思うけれど、人の心の循環、気の通りの循環を考えに組み込んでいるモデルってなかなかないんじゃないかと思う。