意味というのは、人間が人間の理屈でつくったもので人工的なもの。意味というのは、甲斐であって、あるものやある行為がもたらす何かの効果や有用性のことだと思う。
人間の理屈は、ギブアンドテイクだと思う。あからさまにするのを避けていても、何かの有用性があるから、人と人のあいだで意味があり、価値があるから存在していていいという理屈だと思う。
ところが、あからさまにするのは隠しながら、社会から有用性が不足としているとみなされる人たちはなんだかんだと抑圧の対象にされる。自分はギブアンドテイクの理屈に頑張って従っているのに、あなたはそれに従ってないという嫉妬から攻撃されたりする。本人も社会のまなざしを内面に取り入れてしまう。
しかし、有用性のために生まれてきたんじゃない。何のために生きているのでもない。誰もが自分も知らず他者の理屈が支配する世界に勝手に放り出されてきた。生は、人と人のあいだにあるのではない。
生という自分たちを包み込む絶対的な他者に対しても、人と人の間の理屈が通ると勘違いするとき、他者である生は何も変わらないが、人と人の間に抑圧される人たちが生まれる。
他者の前において平等ということは、他者の前においてどのようなものも無意味だということだと思う。意味は、他者、無意味の世界がまず存在することを前提に、世界のその耐えきれない他者性を補うためにささやかに作り出されたもの。その分限をこえると抑圧がはじまる。無意味なわたしたちが生きる。生きている。そこに人としての優しさが生まれると思う。
他者は、谷川俊太郎さんの詩「階段の上の子供」のようなものだと思う。
かいだんのうえのこどもに
きみははなしかけることができない
なくことができるだけだ
かいだんのうえのこどもがりゆうで
かいだんのうえのこどもに
きみはなにもあたえることができない
しぬことができるだけだ
かいだんのうえのこどものために
かいだんのうえのこどもはたったひとり
それなのになまえがない
だからきみはよぶことができない
きみはただよばれるだけだ