降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

今さらながら自己責任論の話し

自己責任という言葉が今はどう定着しているのだろうか。

恣意的に使われるだけ使われた結果、日常語としてはもうバイアスがありすぎて、その人が人としての歩み寄りの放棄と責任転嫁という意味で使ってなくても、もうその意味合いを連想させずにはいない言葉になっているように思う。

 

単一の次元、単一の層の現実において、ゼロか100か、あるいはバランスで50がいいのかというような話しになるのも違うように思う。

 

強いものが弱いものを幾らでも抑圧して好きなように幅をきかせる。人間は他のものに対してそれをしているけれど、せめて人同士の間だけでも少しやめないかというのが文化であって、社会というものの方向性だとするなら、歩み寄りを放棄するのは間違っている。だから社会を構成する主体的存在としては、歩み寄りの放棄の正当化を受け入れないのは当然だ。そういう意味では義務ですらあるかもしれない。

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一方で、社会はそのように強いものが歩み寄りを拒否する場合もある荒野であって、年金のように保証しますよといいながらそれをハイリスクの高率株式の運用に出してしまったりするのだから、自分が生き残るということに対して責任をもつなら、その現実に対して対峙する必要がある。社会へのアプローチと社会に完全依存しない自分たちの周りの環境づくりをする。

 

こちらの責任を放棄すると、より弱い存在になって生きる力が減ってしまう。社会の歩み寄り放棄は認めない。と同時にこの荒野での生き残りに対しては自分しか責任がもてない。別々の次元の話しなんだと思うけれど。