中島敦の短編「D市七月叙景」。
一度読んだ時は特に何も思わなかったのだけれど、院生時代の共同研究室で一緒だった後輩がすごく好きだということで、読み直してからいいなと思い出した。
話しが逸れた。「D市七月叙景」に戻る。貧しい労働者が豪華な料理屋に入り、好きなだけ無銭飲食し、ぼこぼこに叩きのめされるが、彼らが去った後、幸せで笑いが出てくるというくだりがある。
ぼこぼこにされても、美味しいものをたらふく食べてやった、やってやったという感覚なのだろう。世間一般的な水準でみれば、殴られるのは割りに合わないのだが、労働者にとってはお釣りがくる行為なのだ。
自分の畑のもので生きていけるというのも、やってやった感がある。四国八十八か所巡りを徒歩でやっていたとき、旅の途中でトイレを済ませたり、1食を済ませたり、寝るところを見つけて寝たときもやってやった感があった。
世界に放り出された生きものが、間隙を縫って得たいものや状態を引き寄せたとき、この感覚があるのだろう。ギブアンドテイクの感覚ではない。
この感覚をもつとき、多くのエネルギーが流れ込んでくる。この感覚を軸とし、ベースとすると躍動的になる。これを維持し、運用していく。
これがやれるようにやるということであって、持続的にやれることであると思う。ギブアンドテイク的な取り引きは得れて当たり前で、しかも同等のものしかもらえない。それではつまるところ、エネルギーが目減りしていく。
受けではなく、狩りのモードに入る。モードに入れることをやり、選ぶ。モードに入れるように環境に働きかけ、環境をデザインする。
モードに入れるためには様々な調整、微調整がいる。微妙な調整は自分しか出来ない。ここにおいて、世界と自分が誰かを介してではなく直接触れ、関われる関係性にあることが重要になる。
自給、ナリワイ、自営業などの重要性はここにあると思う。誰かを介さないと世界に触れられないところでは、モードの調整に限界がある。ハンディがあっても世界と直接触れ、関わりを持てるならばハンディを補うアプローチをそのたびにつくりだすことができる。