前にフェイスブックで池田香代子さんの記事のリンクがまわってきていて、僕もそれをシェアした。FBは、タイムラインの下のほうに行ったものが戻ってくることはあまりないが、見てシェアしてくれた方がいて、再度上がってきた。
戦後におこった沖縄の少女轢殺事件の写真をとった写真家嬉野京子さんの講演を書き起こしたもの。
嬉野さんは、この写真をとったことにより米軍に拘束され尋問された。その後一旦釈放されたが「米兵に暴力を働いた」と指名手配される。山狩りがはじまったが、嬉野さんはドヤ街のような地域の家に隠れ、弁護士や各政党をまわり助けを求めた。本土に戻ろうとするも、港も封鎖されている。他人名義のチケットを得て、空港へ。各政党の三役クラス、全軍労や民主団体のそうそうたる面々が後ろに立ち、嬉野さんが搭乗させたことで後に空港職員に塁が及ぶことがあってもそれを守るという姿勢を示して、沖縄を脱出することができたとある。
少女の写真は、外傷がみえるわけではないのだが、アスファルトの道路にカエルか何かのようにそのままの姿勢で放置されている姿は衝撃的で、見ることに抵抗がある人は見ないほうがいいと思う。
2005年のデータだが、沖縄では、米軍関連の事故・事件が年間1000件発生しているそうだ。記録に残らず泣き寝入りさせられたものを含めるとその数は膨れ上がると推測されている。
深い闇。救いのない人間の業。それは取り繕われ、表面上は見えないようにされていても厳然としてそこにある。絶望を感じさせる現実は、しかし厚く塗りこめられ自分をつくりあげている欺瞞にヒビを入れてくれる。そこで繰り広げられたことは、同じ人である自分が潜在的にもっている可能性が現れたもの。そして少女の無惨さもまた自分が自分に対して行っている抑圧が現実の層で現れたものでもあるのだと思う。つまり、この事件は一方で、個としての人のなかで起こっている力動であって現実なのだと思う。
今が苦しい。自分のなかに出来上がった構造、欺瞞が自分をその惨めさや痛みに近づけないように働く。しかし、惨めさや痛みは怨霊のようにうめき続けている。それが影響を与えてくる。それを弔い終わらせるために、痛みをもう一度ひき戻してくれる現実が必要なのだ。
以前書いたように、人は、世界を自分として体験すると思う。人は世界に自分の身体を投影しているともいえる。だから轢殺された少女も自分なのだ。少女が何かを訴えかけてくるのなら、それは自分の奥底にあるものなのだと思う。それは抑圧によって明確に意識しないようなところにいっている。
なぜ、宗教者や受難にさらされた人たちは、病をもつもの、救いの無い状況にさらされているものに対して、その人たちが「私の代わりにそれを引き受けてくれている」と言うときがあるのか。それは、苦しむものが宗教者自身の深く抑圧された苦しみを世界に引き出してくれるからだ。そこにかかわることによって、宗教者自身がその心の奥でうめき続けている亡霊、苦しみを終わらせることができるからだ。だから彼らは圧倒的に主体的で、その関わりに感謝している。
「人の為」はどこまでいっても嘘でしかない。
彼らは同時に恥じているだろう。そのような苦しみをもった人たちを通してしか自分が救われないことに。その恥ずかしさが人のもつ救われなさに対するやさしさとなるのだと思う。彼らは罪人に石を投げることが、自分自身の怨霊に更なる鞭を加えることを知っている。合理的なのだ。一般的には慈善行為にみえるだろう。だが、それは見ようによれば非情でもある。「自己犠牲」などどこにもない。自分も誰とも変わらない人でなしだ。そのようにしか生きることができない。その現実を受け入れ、痛みにうたれることこそが人を人として維持させると思う。痛みを伴わないまともさなど何処にあるだろうか。
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