降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

多様性 自由の根拠としての孤独 倫理の基盤としてのどうしようもなさ

日曜日にいったワークショップを学ぶ講座でも、多様性という言葉が沢山出たけれど、それぞれのイメージが、実質どういうことを指しているのかが気になった。意見が違ってもただ否定しない。あるいはノータッチというのが多様性なのか。ちょっと気持ち悪くなってきたので、自分なりに腑に落としたくなった。

 

意見が違ったとき、何らかの強い価値を後ろ盾にねじふせようとしてくるのは、相手に意見を言われたときに、自分の価値が揺らがされ、侵食されてしまったからだ。声の大きいほうでも侵食されるのだから、もともと力の弱いものが人の言ってることをただ否定しないとか、ノータッチであるということだけでしかしないのであれば、実際上弱らされているのだと思う。

 

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だから、多様性ということを考えるときは、そもそも弱らされる位置にある人が、絶えず押し寄せてくる既存の圧力にも関わらず、エンパワメントされること、よりエネルギーを得られることがまず前提に含まれなければならないと思う。

 

既存の構造があるのに、自分たちがエンパワメントされるためには、やってくる圧力を無力化したり、減らしたりする体制や環境が必要になってくる。既にある構造を変えるというのは、それに安住しているものにとっては反逆。だからそれは闘いになる。しかし、力の強いものや多数者がやってくるやり方と同じことをしていると単純に負ける。弱いものは新しい軸を創造しなければ力を得ていくことが難しい。

 

多様性が担保されるのが望ましいのは、一つは自分で自分をエンパワメントしていくことを許容されるからだ。人にはそれぞれ進み方があり、自分のなかにあるプロセスが展開するためには他のやり方では駄目な場合が多い。自分の個性・障害にあわせて繊細なところまで調整してはじめてプロセスが進んでいく。一律のあり方ではうまくいかない。だから社会にグラデーションをつくり、それぞれの場所、文化をつくることがのぞましいと思う。それぞれの場所で文化の生態系をつくりだすことが、生き残りにとって重要になってくる。

 

生きるということに責任をもつとき、人は自由である必要がある。自分という特殊な状況に対して、死の危険性、そこにつながる衰弱の危険性は一瞬一瞬、常にあるにも関わらず、それに対して人が適切な指示をしてくれるわけではないからだ。それは孤独であるともいえる。自由であっていい根拠、自由であるべき根拠は、生きものは孤独であることだと思う。

 

そして人の尊厳は、他の誰も引き受けられられないその場所、その状況を否応なく引き受けざるを得ないというところにあると思う。それは誰もが避けることのできない苦しみなのだ。だからそこを侵してはならない。

 

孤独に圧倒され、どうしようもない惨めさ、救いの無さに陥る可能性が常にある。せめて人と人の間では互いを守りあおうという暗黙の約束が互いに人であるための要請だと思う。多様性を創造するということも、この要請に基づいているものと思う。

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