降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

トークバック 沈黙を破る女たち 坂上香&池内靖子&金満里トークバック・セッション

今日は、立命館大学で行われた「トークバック沈黙を破る女たち」へ。

 

 

HIVに感染した女性たちが演劇を通して自らの尊厳を回復していく姿を描いたドキュメンタリー映画。監督は坂上香さん。以前の投稿で、強い刺激、快によって今体でうずくものを麻痺させることと、その苦しみを終わらせること=弔いについて書いた際にも紹介した。

 

 

トークバックを一緒に観に行く会とか勝手に名前をつけて人を誘って観に行ったりしていたので、今回4回目になった。せっかくなのでフォーカスされている登場人物の周りの人の表情を見たりしていた。

 

外国の、特殊な人たちだけの事例ととらえられるかもしれないが、これは社会の抑圧がマイノリティに対してどのようにのしかかっているか、そして生きられる軸を見失い、尊厳を奪われた人たちがどのように回復していけるかについて共通するものと思う。

 

HIVに感染した理由はそれぞれだった。付き合っていた人が感染していた人、薬物の注射を介した人、留学先で知人にレイプされた人など。社会における生きづらさが増し、追いつめられるのはどの人も同じだ。実の姉から家に来ないでと拒絶されたり、保守的な故郷では悪魔の病だとされていて両親にも言えないなど。

 

ただ社会から抑圧された被害者だというだけでなく、若い頃子どもを見捨て、孫ができる年齢になってから関係を修復中だという人もいるように、自分もまた誰かを傷つけた加害者として生きている人もいる。

 

自分たちの過去に向き合い、それを仲間たちに語り、そして演劇として社会にそのリアリティを提示していく。回復して元気になっていったメンバーは、その後新規メンバーを助ける役割になる。そのこともまた回復をすすめるという。

 

初めて観たとき、一番心を揺さぶられたのは、演劇を見に来た観客の姿だった。演劇は双方向性で観客もまた語ることのできる時間をもっている。彼女たちの演劇をみたあと、ある女性の観客が自分も18歳のころHIVに感染し、以来20年以上たった今でも、子どもを生むことを諦めていたと告白し、子どもを生むと宣言した若いHIV保持者のソニアにエールをおくる場面があった。最近はHIV保持者でもほぼ子どもに感染することのない出産が可能になっている。ソニアは力強く自分の意志を表現し、それが観客のなかに呪いのように重くのしかかっていた気持ちを解くことができたのだと思う。

 

演劇で観客とのやりとりがあるように、映画もまたそれにならい、監督の坂上さんと会場とのやりとりがされる。今回は、障害のある人達が役者として作品をつくっている「劇団態変」を主宰されている金満里さん、演劇論を専門にされている池内靖子さんとのセッションも加わった。

 

8年間をかけ、そしてこの劇団以外にも様々な場所を取材されてきた坂上さんの話しでは、映画には現れていなかった事柄も紹介され、より重層的に現実が見えてくる。たとえば、劇団と観客が通常ならば平和的なやりとりをするのだが、ある時一人の裕福そうな観客の女性が「素晴らしかったわ。でもあなたたちは犯罪者でしょ?」と発言し、場が騒然とするようなこともあったとか。彼女の言葉に対し、ある女性は自分は非常に幼くして外に放り出されてレイプされたが、それをあなたたちは救わなかった責任はないのか、と厳しく言い返したとか。

 

必ずしも誰もが差別や抑圧の姿勢を解くわけではない。社会の無慈悲さ、残酷さは消えてしまうわけではない。

 

 

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 だが、社会がそのようであっても、そこに仲間たちがいれば自らの生きる軸を取り戻し、回復していくことができる。

 

上映後の3人のトークセッションは、ちょっと相容れないようなところもあった。

金満里さんは率直で自分の考えをがっちりもっている印象だった。トークバックは、自分探しの映画だと思ったから行きたくなかった、しかし後半のところでちょっと見方が変わり、学べるところがあった、自分がやっているのは芸術であって、魂をそこで現すもの。その魂の現れは個人的なものにとどまらず普遍的なものとして現れると考える、といった感じのことを言われていたと思う。金満里さんの演劇は、まだ観に行ったことがないので、次回公演は観に行きたいと思う。

 

そして演劇がセラピー的効果をもつという話題。坂上さんはセラピーとしての効果があるかもしれないが、セラピーを演劇の目的にしてしまった場合は逆に否定的に働くことについて言及された。全く同感だ。またちゃんと学んでない人、理解していない人がサイコドラマ(セラピー的狙いのある演劇)を無理やりやっているところに遭遇したそうで、トラウマ的な経験を演者にも観客にも与えていたこと、セラピーを狙ったものが逆に危険になることも指摘されていた。

 

セッションをききながら、あらためて回復とは何か、生きていくとは何かを考えた。回復は、ある面からみれば、内面に入り込んでしまった否定的なこだわり・規範・価値観を破綻させていくことであると思う。そのことで循環するエネルギーの大きさが変わる。それは不足していた血流が回復し、全身に酸素が送られるようなイメージだ。各部分の状態が変わるし、部分と部分の連携状態、また全体としての状態が変わる。

 

すると、世界に働きかけるエネルギーができる。そして自分に関わる環境に働きかけ、環境を変える。そのことによって、今度は自分だけでなくその周りの環境をふくめた「体」に血流が循環しはじめる。

 

生きるものとそうでないものの違いは、抵抗や維持だと思う。生きものでないものは、自然の力を受け、均一化していく。生きものは、川が流れているからといって、海まで流されない。流れに頭を向け、生きる場所を維持する。そして絶えず栄養を摂取し、体を維持する。これらは全てをならし、均質化していく自然の圧力に反するものだ。

 

だから僕は、生きていることはそもそも均質化、均一化の圧力に対する反逆としてあると思う。それは文化ができた今の社会においても同じだと思う。内面であれ、外の環境であれ働きかける。それは反逆なのだと思う。