降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

居場所塾続き 飢えをもつ人に気づいてもらう

以前エントリーした居場所づくりの講座の続き。

左京区が月1回ペースで催している全7回の講座。

 

 

行政の企画ということで、あまり期待していなかったものの、参加者は多様で既に活動をしているような人が割と多い印象だった。月1回でそれぞれ講師が来たり、街の居場所のようなところを巡る。だが、正直なところ、来ている参加者が面白ければ講師の話しは短くして、参加者同士でのやりとりを密にするほうが事はおこるだろうと思っていた。企画としてそれでは人が集まらないのかもしれないが。

 

運営側で、メーリングリストが作られた。早速、講座の時間外でこの指とまれ方式で集まる場をつくらないかと提案した。マイノリティであっても尊厳が保証される場所、老いても自分たちで看取りまで面倒をみれる場所がつくりたい。その旨を提示した。動機が高い人は反応してくるだろう。

 

何かやるときに、それをしなければいけない切実さがそこにあるかどうかは重要な指標として確認する必要があると思う。生きものは危機がせまるまでは保守的だ。それが成り立たなくなるまで、同じことを繰り返すのが生きものの体だと思う。危機でなければ大したエネルギーをさかない。何かいいことだと思うことがあって、それに同意をしめしたとしても、切実さがなければそこに大きなエネルギーを投資したりしない。

 

動機の高さとは、飢えだと思う。切実であるとは、強い飢え、あるいは欠落をもっていることだと思う。僕にすればそういう人が共に生態系をつくっていける潜在的な仲間。切実であれば嗅覚も違う。そういう人たちが反応する投げかけをし、こちらの存在に気づいてもらう。いつもそのために言葉を凝縮しようとしている。しゃべるのもうまくないから、僅かな言葉に幾つも重ねられた意味、考え、方向性をもたせられるように。一瞬の関わりでも、相手に何かが届くように。

 

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http://www.pakutaso.com

 

多数派でない生き方には保証がない。そして大きなシステムもそぐわない。必要最小限の規模の自律的なまとまりが、パッチワークによって繋がり現れる生態系をつくることによって、生き残りの環境がつくられる。一人で完結した自給自足の生活はもろい。ちょっとした周囲の変化、あるいは自分の健康状態の変化で成り立たなくなるだろう。生き残るなら周りの環境もつくる。それが自分たちの生態系をつくるということ。

 

社会が変わるのは一番最後だ。それまで生き残る必要がある。よって少数者には積極的な自分たちへのエンパワメントが要請される。小集団をつくり、そこで自分たちがエンパワメントされる文化を創造する方向性が望ましいと思っている。少数者にとって否定的な考えでも、社会では普通に流通していて、自分がおかしいのか、自分が悪いのかというリアリティにも侵食されやすい。一方で、小集団が自分たちの正しさに高をくくり、既にあるものにすがりすぎると閉鎖的になって、結局集団内で個人が抑圧されていく。一人一人が個としてあり、自分によってしか救われない、自分の歩みをもつ必要があるのだろうと思う。

 

居場所は、単に減ったエネルギーを元に戻す場所と考えないほうがいい。生まれたエネルギーを運用し、エネルギーを増やす場所。環境に働きかけ、生き残る環境をつくるところ。物理的な場所とは限らない。世界との直接的な関係性をつくりだしていくプロセスがおきるところだと思う。

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