降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

自由の代償

少し前に身体のことをしている人の話しを聞きにいったのだけれど、その人の話しによると、あらかじめ全ての向かう焦点が決まっている動物の合理性から外れ、人が自由を得るというその逸脱は4つんばいから2足歩行への移行によって始まっているとのことだった。

四つん這いの状態と、2足歩行の状態で様々なワークをする。文字を読んだり、相手の手をつかんだり等々。結果、四つん這いでやるほうが手に入る力が強かったり、身体的な強度はしっかりする。

一方、四つん這い状態だと意識の向き方が限定されたり、考えをしにくかったり、何かわからないがある種の緊張状態に強いられる。

ペアの相手に親指と人差し指でわっかをつくってもらって、そのわっかの向こうを見ようとするとき、座ってみたら余裕でできるが、四つん這いだとわっかの向こうよりも、親指と人差し指それ自体に意識がいって、その向こうに意識が行きにくい。

これがどういうことかというと、四つん這いの状態では、動物的な意味で身体の合理性が焦点をもつ。腕、足、目、意識の持ち方、そのようなことが全てある一つの合理性のもとに焦点をもつ。と同時に、全ての仕組みが一点を向くために、それ以外の方向、それ以外の可能性が制限される。

座ったり、立ったりする状態だと、動物として一点に焦点を持つこと、身体の各部分が一体となって同じ目的に向かうことができない。もともとの合理性、身体も思考も一体となる状態を、あえて麻痺させることによって、それぞれの部分が本来的に向こうとしていた方向性が失われる。

四つん這いから二足歩行になることによって、もともとの合理性を破綻させる。そのことによって、行き場のない方向性を得る。行き場のなさのなかに、そこにあった違う可能性がひきだされる基盤が生まれる。

人が得た自由というのは、もともとある方向に向いていて成り立っていたものを破綻、あるいは麻痺させることによって、行き場のない力、方向性を生み、それを利用することを源とする。方向性のないものであるからこそ、自由足りえるわけだ。

自由の代償は動物的合理性、一体性の欠如。

動物は自分で自分をストレス状態に追い込まないが、人は普通に自分で自分をストレス状態に追い込む。それは動物的合理性が麻痺され、身体と意識の一体性が分裂している状態にしているからこそできる芸当だ。

人が得ている自由は、行き場を失った力をもとにしているので、別に秩序だった方向性に収束しない。そして動物的な一体性を麻痺させているので、自然にしておけば何も気にせず健康に近づく方向性も分裂させているので、身体的問題のケアも難しくなったりする。

しかし、この地球環境も人も破壊していくような現代だから、みんな四つん這いに戻ればいいかというと、戻れないだろうし、戻ったところで戻っただけというか・・・。

それに4本足から2本足になること自体が、そもそも「自然」が完璧に調和性をもっているなら起こりえないはず。それがおこって、何十億人が立てて立ってるのだから、それはもともとあった可能性であって、大きな意味で自然なのだと思う。

そう思うと、秩序というものへの見方もちょっと変わる。もともとの混沌のなかで、混沌のもつ可能性の一つとして秩序、混沌から他の可能性が削ぎ落とされたものとして秩序があるのだろう。

人間は地球の環境のなかで生まれた身体をもっているから、その前提のもとでしか大抵生きられないし、うまくいかないけれど、同時にもともとは混沌。やっていることも大きくみれば混沌の抑圧されていた可能性がわずかばかり規制から漏れ出たというか。

地球の環境から派生してきた生きものとして、どんなに自由で混沌になろうとしても限界や前提がありすぎる。前提や限界を超えればうまくいかなくなったり、死滅するだけだから。

混沌、全ての可能性のもとでは、病気も障害も不適応も逸脱も不具合も変異も本来当然で自然と思うのは、苦しまない距離の取り方としては適当かもしれない。

16歳の少年が大統領や役者、野球の監督など様々な人に数千の手紙をおくり、それぞれの人にとって、人生で一番大事なことは何かという問いへの返答をまとめた本『人生でいちばん大事なこと』のなかにあったコメディアンの返答。

Life is too serious to be serious
人生は深刻になるには深刻すぎるね。

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