降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

今日も対話へ なぜ「とむらい」なのか

今日も午後から「とむらい」をめぐる対話へ。希望してくれた方たちはテーマ自体に興味をもったという方もいれば,人の話しを主観をまじえず聞くトレーニングとしてだったり、とりあえず僕が何を考えているのかきいてみるとか、様々。

 


心の仕組み,ありよう、使い方など、僕は主に人の話しから理解しようとする。それぞれの個人が生きていくために生んだ工夫、理解の仕方、距離のとり方がある。そしてそれはその人の試行錯誤のうえで今のとらえ方になっているわけだから、ただの思いつきではなく,相応の理があり、吟味があるわけだ。そして既に応用の段階に入っている。そこにある構造を明確に把握していることにはいつも驚く。なるほどと思う。僕はそれを収集して整理している。

 

今回は、「自己実現」という言葉の区分け,そしてなぜ「とむらい」という言葉に落ちたのかの理解が進んだ。「自己実現」という言葉と社会的成功はよく同一視される。一方、僕はその力動は社会的成功とは関係ないと思っている。僕はそこでおこっていることは救われていくことだと思っているので。

 

誤った「自己実現」は,本当の自分になるつもりで,実は自分と別なものになろうとしている。「理想の自分」の背景にはそうでない自分の強烈な否定がある。自己否定そのものなのだが、本人は気づかない。強烈なものを求める心には麻痺を求める志向がある。それは防衛の一形態。防衛しなければならないまで追い詰められているということだ。そんな状態で質的な変化などおこらない。

 

変化とはある種の死であるのだが,必死で死なない(変わらない)ようにしている。まずは否定から離れることが必要で、それは強烈なものがなくても大丈夫になるということ。強迫からニュートラルになるということだ。そのとき変化は自律的に派生的におこる。

 

僕は、特に高揚による麻痺の理解について重要視している。メッセージでやりとりしている方たちとの対話では、その点について多く話しをしている。高揚によって自分を動かそうとするトリックを多用すると,薬物依存のような状態になり,最終的に大きく落ち込む。前進とみえたものはその場限りのもので持続しない。疲れた状態で振り出しに戻る。

 

とむらい」という言葉を使うのがしっくりくるのは、自己否定を基底とした強烈な変身願望としての「自己実現」とは逆方向であることが直感的にわかることが一つある。
誤った「自己実現」とは自己を否定して他者になるために,強烈な高揚と麻痺を使い、疲労や反動をもたらす無理やりな努力をもって達成しようとするもの。その内実は今あるものを守ろうとする防衛反応。頭と心の実際に対して、完全な乖離や無視、無自覚によって仮想的に成り立っている想定だ。そして世間的な評価にとらわれる。

 

一方、「とむらい」としての変化は、自分のうちで既に強迫的に働いているものを強迫的でないようにしていくように動く。強くネガティブなものは、強くポジティブなものを背景として成り立っている。それらがもたらす緊張や違和感に気づき,それを調整していく。あるいは乖離させていた価値観、自分を一つにおさめていく。緊張や麻痺には大きなエネルギーを使う。そのエネルギーが必要なくなり、解放されると自然と変化がおこってくる。緊張や麻痺は詰まりをつくっている。それをただ取り除いていく。ここに反動はなく、心のエネルギーは過程のなかでむしろ満ちていく。

 

とむらい」という言葉を選ぶも理由のもう一つは「自己実現」より実態としての力動に即していると思うからだ。

 

とむらい」はそもそも死者にむけるもの。他者であって、死んでいるものに対して行うものだと思う。なぜそれを生きている自分にあてはめるのかというと、まさにそのような距離感で理解することが詰まりをとる変化を最もスムーズに進行させるからだ。
自分というものに対して人は、コントロールしようとしてしまう。自意識のコントロールは「干渉し止める」ことを本質として成り立っている。自律的反応、プロセスをすすめていくときに自意識の干渉して止める働きは邪魔になる。自意識に干渉させない工夫としても、自律的反応それ自身を主体とし,その求めにこたえていくときには,それは他者であると距離を設定するのが妥当だと思う。

 

そして死者について。人は死んだものに対して葬儀を行ったり,何がしかのとむらいを行う。実のところ、生きていたものどころか、針とか人形とか生きものでないものまで供養し,とむらう文化もある。

 

なぜこのようにしなければならないのか。これは僕の思うところだけれど、心の世界の時間は止まっているからだ。心に時間はない。遠い近いはあるかもしれないが、全てのものは同時にある。そして動かない。あるいは同じ余韻を反響させ続けている。死とは動かないもの。放っておけば同じままだ。その動かない世界に対しては、積極的に働きかけて、そこにある意味を更新させる行為が必要なのだ。

 

供養は、心の世界にとって意味あるものの突然の欠落、喪失によって、均衡が崩れた心の世界、意味の世界を再更新する働きかけだ。それは実際の行動によって変化していく。特定の意味づけがされるような行動をとる。そのことによって、心のなかの世界が更新され、均衡が回復する。

 

未来にむけ、素晴らしい他者になっていく「自己実現」のように見えるものは、実のところは内的な止まった世界の意味づけを再更新するしようとする動きだ。つまり、もう終わっていることに対してその意味づけを変えようとすることだと考える。

 

意味づけを変えるためには、この外側の世界での実際の行動と他者との関わりで変えていく必要がある。外側、見かけ上は未来志向な行動になる。しかし、それを動かす内的な力動はもう済んだことの意味づけを変えようとする過去志向のもの。内側と外側がまるで逆だが、外側の行動は内側の動機によっておこっているのだから、内側のほうが主だと言わざるを得ないだろう。

 

内側の動機をみれば、それは終わってしまった過去を再更新したいという求めなのだから、「とむらい」というのが実態に即していると思うのだ。人は新しい世界を作っているつもりだけれど、実際のところ、内側の世界では既に終わった世界に住んでいて、再更新したとしてもやっぱりその時間の止まった世界に住んでいる。新しいところにはいかないし、いけないのだ。その時、「発展」とか「成長」とかの虚構性、欺瞞が見えてくるだろう。それらが実際に引き起こしているのは、変化をとどめる強迫だ。その強迫は他者をコントロールするために使われている。