2018-08-01から1ヶ月間の記事一覧
人間とはどういうものかとずっと考え続けてきた。深く傷ついた人たちのありよう、そしてその回復のありようから。 深く回復する人たちは、深く傷ついた人たちであるようだった。そしてそのような傷つきは、自分からではなく、他者から受けたものだった。その…
筆者は、横浜寿町で金曜日の18時から21時までの3時間、誰がきてもいい識字教室を作った。フレイレと違い、被抑圧者たちが社会変革を目指すところには焦点を置いていないようだった。 題名にもあるように、識字を通して、それぞれの人の止まった時間を流して…
11月4日と18日に開催する、耕作放棄地を畑にするやり方を学ぶ実習の案内です。 環境改善(主に排水を整える)と畑の始め方、柵の貼り方、タマネギの植え方などを学びます。 ◆防災DIYとは? 地震や災害がおこった時、普段の流通が急に途絶えてコンビニから食…
自己決定というのが何か。 mainichi.jp 文中の「周囲と違う個人の選択を尊重すること」というのが、周囲の人に向けた言葉なのだろうか、選択をするその人自身に向けた言葉なのか。多分前者のような感じがするけれど。前者なら他人に自分の考えを強制しないほ…
社会的共通資本のお話しの2回目。前回のお話しの復習と宇沢弘文さんの著書である『自動車の社会的費用』の前半部分が取り扱われる。 社会的共通資本 (岩波新書) 作者: 宇沢弘文 出版社/メーカー: 岩波書店 発売日: 2000/11/20 メディア: 新書 購入: 6人 ク…
昨日は南区DIY研究室読書会。 今、リアルタイムで浮上し考えていることを話せて、応答をもらえる場でありがたい。等身大であることと、まだ自分のものになっていない少し先のことを探究することが両立している場だと思う。 フレイレは、対話において二つの次…
フレイレの教育的活動においては、単に何かが記憶され蓄積されるかではなく、対話として成り立っているかが必須の条件とされている。フレイレにおける対話は、言葉を用い、人と人が現実の世界を媒介として、共同で探究し、見えなかったものを発見し、認識が…
フレイレは、対話を単に相互変容、相互更新をおこすものとしてだけでなく、「真の言葉」に近づく手段であると考えている。「真の言葉」は世界を変革させる言葉であるという。 行動の欠落は空虚な言葉主義を招き、省察の欠落は盲目的な行動主義を招く。真正な…
オープンダイアローグにおいて、斎藤環さんは2年ほどの訓練で対話の場を囲む人になれると指摘する。それで臨床心理学の人にもぜひ加わってもらいたいが、1対1のカウセンリングのスタイルでやってきた人たちはそこに消極的だという。 futoko50.sblo.jp 山…
はてなブログの右上端のリンクから検索をかけると、結構マニアックな言葉でもヒットするのに最近気づいた。本の題名などで検索してもGoogleだとアマゾンなり楽天なりのリンクが上位にくる。そういうのがない。こういうふうにいつも同じものが引っかからない…
開かれゆく対話の文化祭の振り返りがあった。フィードバックする。どこまで決めてどこまでその場に任せるかという話しも出たのでまずそこに。 場をもつ時のあり方について。場をもつ時は、コンセプト、ここで何をやりたいのかをそこに関わる人がきちんと意識…
人は自分で自分を疎外していくことを避けられない。 そこに考えが至ったとき、気持ちが救われた。 自分という場所に肯定的なものをかき集めようとすることが「自己肯定感を高める」だろうか? 一時的にはそうかもしれない。だがそれはいつでも風に吹かれて自…
南区DIY研究室読書会。 今回は、里見実『「被抑圧者の教育学」を読む』の第二章と山口純さんによる身体教育研究所の『白誌』の発表。 『「被抑圧者の人類学」を読む』も一章ずつ読むのだったら毎回発表できるし、読むのと考えるのがちょうどいい。自分たちで…
対話とは何か、しつこく考えている。この言葉がどのように使われているかを振り返ってみて、そこにあるエッセンス的なものを抽出していく。一度まとまった位置づけを作り、そして気づいていなかったところに気づけば、それも含めてもう一度全体像を構成して…
時間には二つあると思う。一つは自意識によって設定され認識される、あるべきもの、やらなければいけないこと、求めるものと自分との距離としての時間。もう一つはそれらによって圧倒され、止まっていた生の自律的プロセス、動きだした流れとしての時間。 学…
認識は、言語という分節化されたフィルターによって構成されている。物心とはそのフィルターが継ぎ接ぎされていって、世界が覆われた状態なのかと思う。世界の広さや奥行きを知らないのに、自分のなかに、閉じて時間の止まった矮小な世界が一旦作り出される…
1年が経つ星の王子様読書会。次回は9月12日(水)18:30@茶山 www.dropbox.com 今回は、うぬぼれやの場面。王子を遠くから発見したうぬぼれやは、自分を称賛しにきたぞと思い、王子に手を叩かせて丁寧にお辞儀をして見せたりするが、王子が心から称賛していな…
フレイレは人々が主体であることを放棄させられた時に生まれてくる文化を「沈黙の文化」と呼んだ。そこで人々は受動的な存在になり、他人を主語にした言葉ばかりが使われる状態となる。 里見実は次のように述べる。 日本の場合は権力者や抑圧者への自己同一…
何かの話しを聞いたり、いいと思える方向性を知ったからといって、そのまま自分の世界との関わりが変わっていくわけではない。 自分の状態が今の体制から別の体制に変わっていくためには、そのリハビリ、エクササイズをすすめていくに適した媒体が必要だ。そ…
開かれゆく対話の文化祭が終了。参加者は60名(?)ほど。 修復的司法、リフレクティング、餃子づくり、ドラムサークル、オープンスペーステクノロジー、お気に入り本紹介コーナー、講師へのお手紙コーナー、当事者研究、まちづくり、難民問題、街宣行動まで…
対話の文化祭、オープニングでは4人が部屋の中心に座って、マイクを真ん中におき、ぼそっと話している。これはみんなに聞こえるのだろうか? こんな感じで大丈夫? と最初は思った。 www.kokuchpro.com 4人が一旦去り、話したい人が真ん中にということで、自…
マジョリティはマイノリティからしてみれば無意識、無感覚、鈍感だけれど、もともと強い被害者意識を持っている。今でも〜しているのに、なぜこれ以上自分が持っているものを割かねばならないのか、不当だ、となる。それはマジョリティが自分自身に対してよ…
フレイレは被抑圧者は抑圧者を内在化させていると指摘する。昨日、人と話していて、マイノリティ、マジョリティという言葉より被抑圧者、抑圧者という言葉の方がその指すところがはっきりしているのでは、誰もがある時は被抑圧者でまたある時は抑圧者なのだ…
出会い、学び、対話、という共通の要素を含んだ言葉を自分なりに整理し、大まかにそれぞれの場所をふってみている。 出会いは更新される事態そのもののことであり、「学んだ」とは更新がおこったということ。「学び」というときは、更新に向かう関わり。ただ…