降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

私の探究・研究相談室レポート 回復が回復する 探究と時代からの解放

昨日の私の探究・研究相談室では場についての話しが比較的多かった。

 

世間一般では、主体というのは個人のことだと思われている。が、僕の認識ではむしろ場のほうが主体なのではないかと思う。

 

なぜなら個人が更新されていくために場が必要であるだけではなく、場が個人をつくると感じるからだ。個人は場という関係性の反映としてあると思う。

 

閉じた個ではなく、関係性こそが主体であるという認識は、大学では特に聞かなかった。自分に本当に必要なものは最終的には自分で見つけていくしかないし、今すでに発見されているものでは足りないと思う。そして個人はそれがその人に本当に必要ならば、時代がどうであれ、それを見出す力を持っていると思う。

 

相談室で、回復は自律なものの展開であるということを説明しようとしたとき、「自分が回復するのではなく、回復が回復する。」という表現になった。自分という自意識やその意思的な操作こそが自律的なものの展開を邪魔するという認識をもっている。

 

それぞれの人がさしおけない問題意識をもっていること、興味あるフリではなく切実に求めていることにおいて、その人は時代をこえたものを発見できると思う。違う言い方をすれば、あることについては、そのことが抜き差しならない状況にいる当事者こそが最先端の知識を発見する場にいると思っている。

 

世間が言っていることをそれが言われるままに鵜呑みにするのではなく、少なくとも自分がさしおけない事柄に対しては、そこでおこる実態に対して、よりフィットする言葉をおき、その言葉を更新していくことによって、古い考え方は更新される。

 

相談室のなかで、そもそもまず「自己肯定感」がある程度以上に高くならなければ、自分が変わっていくという体験や過程に入ることは不可能なのではないかということが言われた。

 

まず「自己肯定感」が高くなければ。多くの人がそう思ってしまうけれど「自己肯定感」の向上という考えにとらわれて停滞してしまいやすい。

 

本当にそうなっているのか? 僕の確かめてきた範囲では、自分が好きとか、そういう認識になる必要もなく、ただ自分というものが世間的になんであるかとか、人はこうしなければいけないとか、そういうことが頭から消えている状態になる状況や場、活動があれば人は変容していけると思う。(もちろん戦場とか人権侵害企業の職場とか、そういう強制的な危機的状況ではなくてであるけれど。)

 

「肯定的なものをより多く獲得する」というこの時代の強迫がしみこんだ考えでは、ああ自分はもっと獲得しなければいけないのだという思いそれだけで疲れてしまう。実のところそもそもこの時代の強迫こそが今の自分の停滞状況を作っているのだから、原因を強化するみたいなことをしているわけだ。

 

肯定的なものをより獲得するのではなく、現在自分にとって強迫的に迫ってくる考えとか認識が一時的にでも打ち消されればまずは十分なのだ。その時間と少しでも長く共にいる。浸かっておく。それで自律的なものは回復し、次の展開の力をためていく。

 

僕は心理学とか学問の専門分野に回収される言葉ではなく、素人が使える言葉や考えかたを見つけようとしてきた。そして「自分の時間が動く」という表現を使うようになった。「回復」も最近はあまり積極的には使わない。「回復しなければ」「回復してからが自分の本当の生がはじまる」みたいな考えになって「回復」自体にとらわれ停滞してしまいがちだから。

 

「回復」という達成をすることも「自分が回復した」という承認も必要ない。素人にとっては、難しい用語や考え方を覚えないと先に進めないといういうふうに思わされているけれど、「自分の時間が動くかどうか」ということにそって、物事をみていったり、体験して確かめてしていくだけで、必要は十分足りる。

 

自意識としての自分がどれだけ賢くなるかと関係なく、人には自分も知らない自律的な更新作用があって、それがなるべく活発化するような環境設定やチューニングとはなんだろうかという意識をもちながら日々を過ごせるなら、事は足りる。

 

時代的な強迫で、多幸感がないと幸せではないと思わされているけれど、そんなことはなくて、自分が幸せか不幸せかとか、世間においてはどのくらいのランクに位置するのかとか、そういう考えが消えている1秒だったり、1分だったりの間は、すでに最高の状態であり、「達成」しているとさえいえると思う。

 

そういう間、自分の時間は動いている。自分の時間が動くとき、結果として自分は変わっていく。変わらなければいけないとか、回復しなければいけないとか、そういう考えや価値観など関係なく変わっていく。

 

自分でも知らない自分になっていく。自分が回復したかどうかとか、もはやどうでもよくなるのが「回復」の最終段階なのだから。最後は「回復」にさえとらわれなくなる。そしてそのこだわりが後ろにひくことよってより自由になる。

 

僕自身は大学での出会いとか、環境によって、自分が必要なものとそうでないものを確かめてきたので、大学など必要ないとか、別にそういうことは言っていない。なんであれ、どういうものであれ、自分の時間を動かすということにおいて使えるなら使えばいい。

 

「自分の時間が動く」というとき、自分といっているけれど、それは自分ではなくて、自分も知らない自律的な変化のプロセスが動いているということだ。自分以外のものに任せられるとき、人は安心する。精神的自立とは、外部の権威の言うことの達成ではなく、自分と共にあるプロセス、他者であるそのプロセスをより信頼できるようになるということだ。

 

時間が動くという言葉は自分以外の人にも使えて、その人の時間が動くということはどういうことだろうか、という意識をもちながら探っていくなら、その人を「回復」させなければとか、「適応」させなければという言葉をつかって考えるよりは、健全になりやすいと思う。

 

多くの問題の根底に、その時代がもっている、悪い意味で神話的で実態とは違う考え方の土台とか、枠組みとか、前提とかがある。それに対して、自分のなかで自律的に動いているものに応答していくことは、一旦は吸収して内面化してしまった考えや価値の虚偽に気づき、そこから解放されていくことにつながると思っている。

人間化の過程 意味から解放された場所としての人間

昨日の読書会。

 

フレイレは、人間の使命とは「より全き人間であろうとすること」だろうという。しかし「より全き人間」という言葉がまるでピンとこない。全きとは言葉通りにとるなら、完全で欠けたところがないということだろう。

 

完全。結局そういうものが本当にあると信じていることが不注意そのものなのであって、かつ強迫的に働くものだろうという認識だったので、首をかしげる。読書会のメンバーから「全き人間」という言葉はキリスト教的な文章でよくみられるという指摘がある。なるほどと思う。

 

里見実は、フレイレの解説書のなかでフレイレの『被抑圧者の教育学』とラテンアメリカの「解放の神学」の形成過程とは、時期的に重なりあっていると指摘する。解放の神学がその名前で宣言されるのが、1968年であり、被抑圧者の教育学も同時期に書かれている。

 

里見は両者は理論的にも実践的にも相互に深く影響しあっていると考えてよいだろうとしている。

 

英語で全き人間を何と書いているかみていないのだけど、DeepL翻訳などで「より全き人間であろうとすること」といれるとTrying to be a more whole person. とでる。

 

wholeのまるごとという感じならわかる気がするけれど、完全といわれると、「玉に瑕(きず)」みたいなあらかじめ完成された状態があって、今の自分からどれだけ完璧にしていくかみたいな不毛に強迫的なイメージが浮かんでしまう。

 

まるごとというときは、部分的な存在になってしまったり、されてしまっている人間が人間としてのまるごと性を取り戻していくということで、腑に落ちやすい。

 

まるごとという時は、その範囲が自分の身体だけにとどまらずそこに関わる全ての関係性がふくまれている感じがする。そこには世界と応答しあう存在としての人間が感じられる。

 

依存症などの自助グループ界隈では、「回復とは回復しつづけること」という言葉がある。回復的な体験がある人にとっては、非常に納得感のある言葉だ。

 

回復(した)というと、完了して安定した状態、達成して終わった状態になったように感じられる。しかし、動的な、変化の過程にあることそのものが回復とよべるのではないかと思う。

 

フレイレ自助グループ界隈は分野は違うかもしれないけれど、「より全き人間であろうとすること」と「回復をつづけること」とは同じようなことを言っているのではないかと僕は考える。

 

そして回復を続けるということは、結局はどうなっていくことなのか。フレイレ的には内在化された抑圧から自分が解放されることであるだろう。

 

抑圧されている人は価値観も抑圧者の価値観に侵食されているので、単に状況が改善しただけでは、自分が抑圧側にまわるだけになってしまう。しかも、そうして「成り上がる」ともともと抑圧者のポジションにいた人たちよりも苛烈な抑圧者になってしまう場合が多いという。

 

そのようになってしまうのは、自分が(他者から尊厳を提供される)人間であるためには、それをより証明しなければならない、よって自分とは違う、ダメな存在と自分との区別をはっきりさせなければならないという強迫から解放されないためだという。

 

抑圧者は「(他者から尊厳を提供される)人間であるためには〜の条件が必要だ」と信じている。そしてその条件を達成するために自分以下の存在をつくりだす(誰かを非人間化する。価値ある人間以前のものにする。)。これが抑圧の生まれる仕組みであると思う。

 

人間的な回復を簡単にいうならば、多くの条件を達成した自分であることでようやく自分を人間として認められていたとても強迫的な状態から、人間であるために必要だと思っていた強迫的な条件が減少して、条件の達成の強迫から解放されていくことであると思う。

 

人間とは、「意味」という未来からみた有用性の侵食をさせないところに生まれるものだと思う。人間とは意味の侵食を拒否した場所のことだ。

 

「あなたはあなただ」「わたしはわたしだ」というとき、それは誰かのようであるによって自分は意味をもつのではない、ということを言っているのであって、自分が偉いとか、あなたは素晴らしいから価値があるといっているのではない。

 

用意された鏡に映されたときに意味が生まれる。しかし人間には意味という条件は必要がない。必要がないどころか、意味という誰かにとっての有用性から自分が解放されたときにこそ、そこに人間が生まれるのだ。人間というのは意味から解放された場所のことだ。

 

意味をもたなくてもよくなっていくこと。それが人間にとっての解放であり、そして文化というものが目指してきたものだと思う。「より全き人間」とは人間であるために達成しないといけないと思っていた条件から解放されていくことであり、それが内在化された抑圧から解放されていくことなのであると思う。

 

「自分は回復した」ということを誇りに思うとき、図を浮かび上がらせる地を必要とする言葉の構造上、必然的に回復以前の自分より自分は人間化したと言っているのであり、同時に無自覚であっても回復以前と自分が考える人たちを非人間化することで高揚が生まれている。

 

回復者であることを自らのアイデンティティとし、回復は善だ、回復はすべきことだ、回復を達成した人は価値があると信じはじめたとき、その人はもう抑圧者になっている。何かを達成したと思えば今度はその達成の意味を無化していく。それが終わりのない人間化の過程なのであると思う。

 

追記:その後「より全き人間」はグーグルブックスの英語版ではmore fully humanであることを教えてもらう。そして邦訳で自分を含めた読書会メンバーが困惑したのは、邦訳には英語訳のどこにもない一文「人間の使命とは、より全き人間であろうとすること」ということだろう。」が挿入されているためであることに気づく。「より全き人間」は、非人間化ではないものという程度の意味合いで、とくだんに「全き人間」という言葉に意味が込められているようには思えない。邦訳のためにひっかかったが、「全き人間」にそんなにこだわる必要はなさそうだ。

フレイレから「生きづらさ」を考える

あらためて、フレイレを通して「生きづらさ」を考えてみるとどうなるだろうか。まず「生きづらさ」という言葉について、『居るのはつらいよ』の東畑開人氏はSNS上で次のように述べている。

 

「生きづらさ」という言葉って、心理学ブームが下火になり始めた2000年代になって使われ始めてます。この言葉は、心を云々するではどうにもならない、社会の側の要因を指摘する言葉なんです。そして、その要因とは、社会の問題を個人の心に還元する社会のありようのことなので、心理学はつらい立場です。

 

問題は、個人の内面で完結しているのではなく、社会構造の側にあるという認識だ。臨床心理学の立場の人が自らが依拠している前提を根本的に問い直すことは非常に重要なことであると思う。

 

(「居るつら」本などを読んでいると、たぶん東畑さんが心理学というときは臨床心理学のことで、セラピーというときは心理カウンセリングのことのようだ。心理カウンセリング以外にも多種多様なセラピーがあるのだろうけれど、本を読んでいると心理カウンセリングがセラピーというものを代表するものみたいな錯覚がおきた。)

 

フレイレは、社会を既に決まったもの、完成したものとはみなさず、変化の過程にあるものとみなす。だからフレイレにしてみれば、「社会はこういうものだ」とか、「現実はこういうものだ」とか、そういう言葉は単に今の社会を固定的なものとして考え、それを押しつけているということになる。

 

フレイレにおいては、社会が変容していくことは必然であり、そのために人が、特に今の社会構造のなかで非人間化されている人が、自らを人間化する過程で社会を変容させていくことが求められる。

 

フレイレによると、社会を変えられるのは、そのような人たちの弱さの力であり、力を持たないものの力なのだとされる。

 

被抑圧者が自らの人間性を取り戻すための闘いは、同時に新しいものを創造するということでもあるのだが、このプロセスにおいて被抑圧者が観念の上でも現実の場でも、自らが抑圧する側のまねをするのではなく、抑圧者、被抑圧者、双方の人間性を回復しようとするとき、その闘いは意味をもつ。これこそが被抑圧者の大きな役割であり、抑圧者の歴史の課題である。つまり、自らの解放のみではなく、抑圧する者も共に解放する、ということだ。被抑圧者の無力さから生まれる力が、抑圧する者とされる者を共に解放する力をもちえるのであり、暴力に頼る抑圧者はこういう力をもつことはできない。 パウロフレイレ『被抑圧者の教育学』

 

 

たとえば日本でも50年ぐらい前であれば、重度の身体障害を持った人は家で大人しく「いい子」にしているのが当然であり、遊びに出歩くなど不届きであるという価値観が一般的であったという。障害のない人ができる仕事ができない人は人として自由を制限されて当然であるというのが社会の一般的な価値観だった。

 

自由に外に出られるのは働いていることの引き換えなのであるという価値観。障害がない人の一部が仮にそのような社会に息苦しさを感じていたとしても、自分たちは「働ける」ので、社会のその価値観を変えるのは難しい。たとえそこに疑問を感じていても、自分が自信を持って自由に外に出歩けるのは働いているからだというアイデンティティもある。

 

ある条件がついたときだけ、人は自由に出歩けるような人間であることが認められるのであり、その条件を満たさなければ一人前ではないし、一人前の自由は認められない。これは実質的に「人間」と「人間以前」が作られているということであるだろう。

 

こう書いていると今でも自由の引き換えはこれだとか、そういうバックラッシュ(それまで自由にされてなかった人たちが自由になったことによって、自分たちが今まで持っていた「権利」が侵害されたり制限されたと考える人たちによる、自分たちのかつての大きかった顔を取り戻そうとする被害者面をした社会的反動)は常に存在している。

 

自分たちが人間になるために条件を満たさないものを「人間以前」にし、非人間化し言うことを聞かせようとする社会的な圧力は何も変わらないと思うのだけれど、少なくとも今は重度の障害のある人が外で出歩いていても不届きだというのは一般的な価値観ではなくなっていると思う。

 

既存の社会において当たり前のこと、つまりこの条件を満たしているから自分は人間として価値があり、人間らしく扱われているのだという「条件つき」の人間像が「条件なし」で人間である(少なくともかつてあった「人間」であるための条件の一つがなくなる)ようになること。

 

これが力を持たない人の力であるのだと思う。つまりいくつもの条件がついたうえでようやく「人間」になれていたところを、その条件がなくても「人間」であるということが社会環境の基準になるのだ。

 

今、価値を奪われている人、実質的に「人間以前」と見なされ、扱われている人たちの人間化のための社会との闘いが、社会をより人間的なものとして更新する。

 

以上のように考えると、まず「生きづらさ」の問題が検討されるためには、既存の社会において何が人間であるための条件となっているのか(それはたとえば「空気が読めること」だったり、「人に迷惑をかけない」ことであるかもしれない。)を明らかにすることからはじまるのではないかと思う。

 

抑圧されている人は単に状況が変われば自由になるのではなく、内面の価値観も侵食されているため、自身の内面化された価値観からも解放されていく必要がある。そうでなければ、よくいる成金のように、よりいっそう自分より下の人たち(結局かつての自分なのだけど。)を貶めたり、攻撃しなければ自分がかつての「人間以前」に戻ってしまうような強迫を抱えたままになってしまう。

 

今現在の社会の人間であるための条件が明らかになったならば、そのようではない社会環境を小さくとも作り出していくことが次のステップなのかと思う。人間は人間であることによって人間になっていく。まずは自分に対して、自分たちに対して、誰かをおとしめることなく、人間になれる空間をつくりだしていく。

 

既存の秩序、既存の価値観に閉じ込められたところから、その外にでる。環境を作りだすことによって自分が変わる。そして変わった自分自身に必要なものを提供するためにまた環境を変えていく。この繰り返しがやっていけるのかと思う。

使い捨ての関係と体験の剥奪

読書会を一緒にやっている河本さんの投稿から。

 

www.facebook.com

 

自然のものなので野菜ができる具合は常にばらつきがあると思う。畑をやっているとできるときは過剰なほどできる。しかし受け取り手の需要は決まっている。ということは、こういうお任せ型でないとき、どれだけたくさんのものがロスになっているかと思う。


サービスを提供する側と受ける側と割り切った関係性では、本当に良いものを目指そうとすることは非効率になる。お互い使い捨ての関係性から、育てあいの関係性に移行することでようやく維持されるものがある。

 

自家菜園が広がることはいいと思っているけれど、農家が困るのではないかと言われることがある。全然そうは思わない。より作物が作られる状況への理解が深まり、使い捨てではない、育てあいの関係性が生まれるだろうと思う。

 

便利とは、自分が直接に世界と関わり、自分の認識が更新され、自分と世界の関わり方が更新されるリハビリを奪われていることでもある。体験とそこから生まれる学びが奪われている。新しい世代では便利は脱するものと認識されていくのではないかと思う。不便がいいのではなく、体験が奪われていることこそが、人間にとって根源的な疎外だという認識が共有されて。

 

先週配達のよつ葉さんのお野菜🥦セット980円。
(写真がドラマチック仕様なのはスルーしてください。
見にくくすみません🙏)
「ちょっと間違って二重に配達してませんか?」と、電話を入れました。「いえ、大丈夫です。今週多いんですよね」とのこと。
小松菜、畑菜、ホウレンソウ、水菜、壬生菜、チシャ、蕗、ラディッシュスナップエンドウx2、絹さや、ネギ、チンゲン菜、、かな?💦
5品は必ず入ってきます。収穫が多いときは捨てるよりは食べていただこうという心意気みたい。大見での畑は夏だけなので、特に端境期のこの時期はめちゃありがたく、喜んでいただきます。💚
寒い時期と違って、さすがに痛みそうだったので、せっせと干し野菜を今週は量産しました。👍
よつ葉さん、現在入会キャンペーンされているみたいで、プレゼントがもらえるみたいですよ~。🌷
宅配のよいところは、お酢とか、砂糖とか、ティッシュボックスとか、重たいものや大きいものも玄関まで運んでくれるところですね。めちゃ助かってます。
不在でも宅配ボックスと保冷剤持参で玄関前に置いといてくださいます。送料無料、入会無料です。
この時期は牛乳やヨーグルトが美味しくっておすすめです。
スーパーで手に入りにくい小麦粉類やよつ葉のバターも確実に入手できますよん🙃
良心的な生産物をつくったり、小さな生産者を応援してがんばっている企業や小規模商店さん、コミュニティは、京都には本当に多くて、これからも残ってほしいし応援していきたい。つい値段の安いときにこうして記事にしてしまいがちですが、目先の値段だけでなく、活動内容にも注目しています。これからも宜しくお願いします!!!😀
関西よつ葉連絡会
https://www.yotuba.gr.jp/

 

2020年畑オープン日のお知らせ

 京都のらびと学舎では、2020年6月〜11月の間、畑のオープン日をもうけます。月曜日のおおよそ11時〜14時の間に岩倉幡枝町の畑にはだいたい誰かがいるので、畑の様子を見物したり、希望があれば作業に参加したりできます。

 

 これは特に何かを教えたり伝えたりという目的ではなく、時間内出入り自由で、散歩の途中についでに見るだけで畑にきたり、畑にいる人に会いにきたり、お昼どきに昼ご飯を持ってきて畑で食べていったりなど、公園的利用のようなイメージをしてもらって構いません。
 


 ただサービスする側とサービスされる側の関係ということではないので、天気の悪くなりそうな日に誰もいなかったりとか、たまたま来た時にもう一つの畑の方に行く必要ができてそちらに行っていたりするかもしれませんので、その際はご容赦ください。お互いに無理なくシェアできるものをシェアする場になればいいなと思っております。

 

※畑の場所などは、各自ご連絡いただいた際にお伝えします。

 

畑オープン日スケジュール

6月
主な作業 今ある野菜のケア 大豆種まきなど
1日(月) 11時〜14時
8日(月) 11時〜14時
15日(月) 11時〜14時
22日(月) 11時〜14時
29日(月) 11時〜14時

 

6月にする作業のこちら。

kurahate22.hatenablog.com

 

7月
主な作業 草刈り 夏野菜のケア 人参種まきなど
6日(月)
13日(月)
20日(月)
27日(月)

 

8月
主な作業 夏野菜のケアと冬野菜の準備
3日(月)
10日(月)
17日(月)
24日(月)
31日(月)

 

9月
主な作業 ダイコン種まき ハクサイ・キャベツ定植など
7日(月)
14日(月)
21日(月)
28日(月)

 

10月
主な作業 夏野菜の整理 ニンニク植えつけなど
5日(月)
12日(月)
19日(月)
26日(月)

 

11月
主な作業 エンドウ種まきなど
9日(月)
16日(月)
23日(月)
30日(月)

※12月〜3月はなし(の予定)。

大きな畑を

岩倉の畑をはじめたころからお世話になっている方が高齢になってその方の畑もぼちぼち終わろうかというようなことを話されているそうだ。

 

いつも野菜や苗を自家消費以上にたくさん作って人にあげられている。その量が多すぎていつももらいきれない。何の銘を打たなくてもフードバンクのような方だ。

 

今日はその方のエンドウの整理のお手伝いへ。これをあげるぞ、あれをあげるぞ、前にあげたあれは足りているか、と何度も何度も言われながら、僕たちももらえるだけはもらいつつも、もらえる以上の分に対しては、足りてます、大丈夫です、と何度も何度も言うけれどそれでもなお言われ続けるというのがいつものやりとり。

 

そのやりとりのなかで、すまんな、時間は大丈夫か、と気を遣われる。

 

「大きな畑だと思っていますから。」とそれにこたえる。直観的にこたえて、たぶん通じてない感じだったけれど、自分たちの考えかたとしてはそれでいい。

 

自分たちは「大きな畑」をやっている。それはいつもやっている区画の作業で完結するものではなくて、周りの人とのやりとり全てがふくまれる。そのやりとりを含めた、まるごとの全体が「大きな畑」だ。

 

「大きな畑」をやることで、自分たちの限られた区画だけやっているよりも色んな縁や話しが舞い込んでくる。そしてその舞い込んでくるものが、結局はいつも次の展開の決定的な土台になるのだ。

 

ただまんべんなく周りの人といい関係性でやろうとするのでもいいけれど、「大きな畑」をやっているのだと考えると、さらに積極的な気持ちになり、「大きな畑」のもつ潜在性を生かそうと考えるようになる。

 

自分の小さな区画だけを守って、そこだけの「生産性」にすがろうとするとしんどいけれど、「大きな畑」をやろうとすると、ギブアンドテイクではない、思ってもみなかった余剰の豊かさがめぐってくる。

 

ここだけと決めた区画の畑のことだけのことを考えるよりも、「大きな畑」を生かそうとするほうが、精神的にも楽だし、実際に自分たちがそれによって生かされる。次の展開もやってくる。

 

「大きな畑」をどのようにイメージするかで、同じことをしていても体験は変わり、感じかたも変わる。それぞれの人が自分のイメージする「大きな畑」をもてばそれは本当の「公共」を生んでいくだろうと思う。

フレイレ 真正なる言葉 「パチンコは賭博ではない」から

フレイレの読書会。

別の2つの読書会でも僕はフレイレをやっているので、三重にフレイレをやっている。

 

フレイレは以下のようにいう。

 

行動の欠落は空虚な言葉主義を招き、省察の欠落は盲目的な行動主義を招く。真正ならざる言葉は現実を変革する力をもたず、その結果、二つの構成要素は分断されることになる。

 

僕は自分が埋没している「現実」を変えるには、言葉を変える必要があると思う。そして自分の状態や状況を変えていくためにそうしてきた。しかしそれは、今まで「〜婦」と呼ばれていたところを「〜師」に変えるような、単語だけの変化ではなく、「Aは、Bだ。」といってきたことを「Aは、Bではなく、Cである」というように、それまで前提とされていたとらえ方自体を変えるものだ。

 

既にある言葉より、さらに実態に近い言葉、フィットする言葉に置き換えていく。そうすると、単語だけでなく、それまでもっていたとらえ方が変わる。

 

無難だけれど、現実を覆い隠す言葉やとらえ方を使うのをやめると、次の思考にいける。たとえば、パチンコ店では換金はされない建前になっている。が、たとえ警察官であっても、オフでパチンコに行ったら換金しているだろう。警察に問い合わせても、換金がこれほど当たり前のことでも、公式には決して賭博なのだとは認めない。

 

僕はあえて極端な例をとっているつもりはなくて、このような虚偽のあり方が、まさにフレイレのいう「真正ならざる言葉」なのだととらえる。「現実」を荒だてない言葉、矛盾を隠蔽したままの「公式」の言葉。それがまぎれもない虚偽の言葉だ。

 

「パチンコは賭博でない」が建前として前提とされているところでは、それ以上の思考ができなくなる。よって、誰もが現実的な思考になっていくことができない。その結果は、単に部分的な矛盾の隠蔽に終わらず、社会の思考を止める働きを生む。ここがもっとも問題であるところだと思う。

 

「公式」がどうであれ、現実に即した、本当の言葉を使って思考していけば、次がひらけてくる。別にそれを告発しなくても、いびつな矛盾をそのまま明らかにしていくとき、世界の現実に近づいていく。

 

パチンコは賭博であるが、国はそれを賭博であるとは認めない。ならば、国とはなんであるのか、という思考。なぜパチンコが暗黙にギャンブルとして認められるのか。それは行政の言葉では決して語られない。そこから、国という実態は教科書に載っている通りのものではない、となる。ならば、その実態はなんなのか、ということが次の考えになってくるはずだ。

 

実態に即した本当の言葉は、目の前の世界の「現実」の矛盾をつき、欺瞞的に成り立っていた秩序に穴をうがつ。穴の向こうにあるものは、今まで馴染んでいた言葉では表現できないものであり、新しい言葉、新しいとらえ方が作り出されることを人に要求してくる。

 

日本が米国の属国であることも、建前上は否定されていて、野党も公式見解でそのまま言うことができないと思う。

 

「真正なる言葉」はそこから受けるイメージとは違って、まるで上品な言葉ではない。それはただ実態をそのままに表現している、今の秩序に馴染んでいる者からすれば、身を蓋もない言葉だ。しかし、次の時代から見れば、それは別にラディカルでも攻撃的でもないごく当然の言葉であるのだと思う。

 

実態からはじめよう。実態を言葉にしていく。「公式見解」と違っても、学者や権威が認める言葉と違っても、自分で見て、自分で確かめていって、そのうえで、現実を表現するのに妥当な言葉を使おう。そしてその言葉で思考していこう。対話に必要な言葉は、そのような言葉だ。

 

フレイレの読書会。
別の2つの読書会でも僕はフレイレをやっているので、三重にフレイレをやっている。

フレイレは以下のようにいう。

「行動の欠落は空虚な言葉主義を招き、省察の欠落は盲目的な行動主義を招く。真正ならざる言葉は現実を変革する力をもたず、その結果、二つの構成要素は分断されることになる。」

僕は自分が埋没している「現実」を変えるには、言葉を変える必要があると思う。そして自分の状態や状況を変えていくためにそうしてきた。しかしそれは、今まで「〜婦」と呼ばれていたところを「〜師」に変えるような、単語だけの変化ではなく、「Aは、Bだ。」といってきたことを「Aは、Bではなく、Cである」というように、それまで前提とされていたとらえ方自体を変えるものだ。

既にある言葉より、さらに実態に近い言葉、フィットする言葉に置き換えていく。そうすると、単語だけでなく、それまでもっていたとらえ方が変わる。

無難だけれど、現実を覆い隠す言葉やとらえ方を使うのをやめると、次の思考にいける。たとえば、パチンコ店では換金はされない建前になっている。が、たとえ警察官であっても、オフでパチンコに行ったら換金しているだろう。警察に問い合わせても、換金がこれほど当たり前のことでも、公式には決して賭博なのだとは認めない。

僕はあえて極端な例をとっているつもりはなくて、このような虚偽のあり方が、まさにフレイレのいう「真正ならざる言葉」なのだととらえる。「現実」を荒だてない言葉、矛盾を隠蔽したままの「公式」の言葉。それがまぎれもない虚偽の言葉だ。

「パチンコは賭博でない」が建前として前提とされているところでは、それ以上の思考ができなくなる。よって、誰もが現実的な思考になっていくことができない。その結果は、単に部分的な矛盾の隠蔽に終わらず、社会の思考を止める働きを生む。ここがもっとも問題であるところだと思う。

「公式」がどうであれ、現実に即した、本当の言葉を使って思考していけば、次がひらけてくる。別にそれを告発しなくても、いびつな矛盾をそのまま明らかにしていくとき、世界の現実に近づいていく。

パチンコは賭博であるが、国はそれを賭博であるとは認めない。ならば、国とはなんであるのか、という思考。なぜパチンコが暗黙にギャンブルとして認められるのか。それは行政の言葉では決して語られない。そこから、国という実態は教科書に載っている通りのものではない、となる。ならば、その実態はなんなのか、ということが次の考えになってくるはずだ。

実態に即した本当の言葉は、目の前の世界の「現実」の矛盾をつき、欺瞞的に成り立っていた秩序に穴をうがつ。穴の向こうにあるものは、今まで馴染んでいた言葉では表現できないものであり、新しい言葉、新しいとらえ方が作り出される必要がある。

日本が米国の属国であることも、建前上は否定されていて、野党も公式見解でそのまま言うことができないと思う。

「真正なる言葉」はそこから受けるイメージとは違って、まるで上品な言葉ではない。それはただ実態をそのままに表現している、今の秩序に馴染んでいる者からすれば、身を蓋もない言葉だ。しかし、次の時代から見れば、それは別にラディカルでも攻撃的でもないごく当然の言葉であるのだと思う。

実態からはじめよう。実態を言葉にしていく。「公式見解」と違っても、学者や権威が認める言葉と違っても、自分で見て、自分で確かめていって、そのうえで、現実を表現するのに妥当な言葉を使おう。そしてその言葉で思考していこう。対話に必要な言葉は、そのような言葉だ。

フレイレの「批判的思考」の提起を多くの人が恐れたのは、それが隠蔽された矛盾を掘りおこし、自分が今いる秩序を変えてしまうからだ。日本はアメリカの属国であると聞いて、極端な、偏ったその人の主観である、と感じるとき、その裏に恐怖がある。その恐怖は、フレイレが各地における実践で直面した恐怖だ。それを前提にしたらもう同じ秩序でいられなくなることを予感させるから感じる恐怖だ。