降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

6/26『被抑圧者の教育学』読書会ふりかえり

出てきた話題

・「被抑圧者と共にあることはそれ自体がラディカルであり、中途半端な姿勢では許されない」ということがどういうことだろうか。

→社会から搾取される少女たちの支援をしている一般社団法人Colaboの仁藤夢乃さんの講演を思いだす。仁藤さんは教えたり指導する立場として関わるのではなく、「女の子たちと一緒に」活動をしていると言われていた。

 

『被抑圧者の教育学』において、フレイレは相手を無知な存在として関わるのは痛切なあやまりであって、それは自身の抑圧者としての立場を保持したり、そこに戻ろうとしているようなものだと批判している。

 

Colaboの活動では、少女たちから出てきたプロジェクトもあり、仁藤さんも少女たちの声自体がもつまっとうさを信頼し、それによって自分の軸を再更新したり調整していっているように感じられる。そこは教えるものと教えられるものの役割が固定された場ではなく、法人の名前の通りの協働がおこっているように感じられる。

 

フレイレが「教育」だということは、世間一般には反「教育」である。里見実は教育はそもそも抑圧の行為ではないかと指摘しているが、その上でその抑圧の行為を反転させうるときに教育が本来の教育としてあるという。

 

僕も教育という言葉自体をあまり使いたくないので、まだマシな感じがする学びや変容という言葉を使っているが、Colaboのような場こそフレイレがまさに示している
学びの場であり、変容の場であるのだろうと思う。

 

 

・実践と省察の不可分性について

フレイレは、実践なき省察、また省察なき実践はあやまっていると指摘する。「実践」が何を意味するのかを考えてみる。僕は「実践」とは自分の既知の外にでて、そこにあるものがどうであるのかを「目撃」することではないかと思う。

 

(「目撃」という言葉を使うのは、それが自分の既知のイメージや予想とは違うというニュアンスをいれたいため。撃は衝撃の撃であり、もはや否定できないインパクトだ。目撃ののちには、ある対象はかって感じられていたものと変わってしまう。)

 

再びColaboの活動をイメージする。仁藤さんと少女たちの活動は、たぶん一般には社会的活動とされるだろう。それ自体は活動であって教育でもなく、学びということでもない(世間一般的には)。

 

だがフレイレにすれば、それこそが本当の「教育」の場ということになるだろう。自身の問題意識をもって、既知の外の世界に出て、働きかけ、そのフィードバックによって自身が変わっていく。世界を引き受ける主体になっていく。フレイレにとって、世界を媒介にせず、教師と生徒だけで閉じるような「教育」は存在しない。

 

支援者と利用者の二者間に閉じず、共に社会に働きかけていくというあり方は、一年ほど前に見学に行ったNPO法人スウィングでも同じ考え方が語られていたように思う。
世界に媒介にしなかったり、実践と省察を片一方だけにしたりして行われるようなことはフレイレにおいては教育ではなく、人に自信を失わせ、受動的な存在にする支配や抑圧の方法だということになるだろう。

 

・純粋な「抑圧者」は「被抑圧者」は実在するのか。

フレイレが活動していた南米では、当時大地主のような抑圧者とそこで搾取される被抑圧者のような存在は、わかりやすく実在していたと推測される。
しかし、今の自分の周りの社会においては、たとえ実態としては同じ構造があったとしても、見かけ上は抑圧する大地主とそこで搾取される労働者というようなわかりやすいかたちのものではなくなっている。

 

またフレイレが指摘するように、被抑圧者には抑圧者の価値観が内在する。中産階級などは抑圧者(世間における「強い」人(より「文化」的、より裕福、より高い地位など))に憧れ、無自覚な部分でマイノリティを抑圧しているのだけれど、より高いステータスのものからは見下げられ、抑圧されているというように複雑なので、誰かを単に抑圧者そのもの、被抑圧者そのものとみなすことはできない。

 

ここでフレイレが提示しているのは、人間化していくということ。

 

「正社員」だからそうでない人より価値があるとか、「結婚」しているからそうでない人より価値があるとか、そういうふうに自身を条件つきで肯定にもっていくと、その状況にあてはまっているときはよくても、状況が当てはまらなくなったりすると価値を失うし、加えて、これは重要なところであるのだけれど、たとえ条件を満たしていても、その条件に縛られていること自体に精神は苦痛と疲弊を蓄積している。

 

加えて、どんなに意識的に否定しても、自身に向ける価値観を同時に他者に向けているため、その価値観が態度にあらわれ、抑圧的になる。

 

どのような人もそのような条件つきの肯定をもって自分を認め成り立たせている部分がある。そしてその条件をクリアしなければならないという強迫によって、実は自身が苦しんでいる。

 

そのとき、自分は無自覚になった部分を自分の代わりに苦しんでいる人がマイノリティであり、被抑圧者だということになる。。彼らが人間として尊厳が提供される状況を彼らと共に作りだすことは、自身が無感覚になり、そのために苦しんでいる内側の抑圧から解放される

 

つまり、被抑圧者(ある条件を満たさないために尊厳を奪われ、実質的に人間以前として見なされ、扱われている存在)に関わることは、人間であることを部分的に失った自分が人間にさせてもらうために、出会いなおしをさせてもらっているのであり、一方的に助けるなどはありえない。

 

だから「助ける」ように見える側が傲慢になるなど、そもそもあってはならないことだし、自分が助ける側なのだというような内心が現れる態度こそが、より目の前の人を傷つけ、精神的な活力を疲弊させる。

 

誰もが部分的に人間であることを失っており、人間化していくために、外在あるいは内在の苦しみから解放されていくために助けが必要だ。人間化を助けてもらうのだから、相手に対して最大限の敬意と尊厳を提供するのは当然のこととなる。
純粋な抑圧者はおらず、純粋な被抑圧者もいない。ただ自身を人間化していくための助けが必要なそれぞれの存在がいるということになるだろう。

 

・多様性について
→すでにある差別構造による権力関係、権力勾配を抜きにして平等や多様性について議論することは、単に現存する差別や抑圧を温存することになる。

 

SNS上で痴漢を無くそうと声をあげている人に対して、ただちに「全ての男性が痴漢ではない」とか「自分の周りでは見てない」とか、「冤罪はどうなるのか、あなたは冤罪に責任を取れるのか」とコメントがつく。

 

現存する歪な構造への指摘の打ち消しがされ、ネットリンチが展開される。今の社会で誰が声が大きく、誰が踏みつけにされたままになるのがよく反映された光景だ。
痴漢の告発に対して、自分も告発者と同じ「権利」をもっているし、告発に同意しないから告発は無効ですとなるのなら、現状は何も変わらない。

 

白人警察に殺される黒人という昔から変わらないびつな権力関係がある状況で、黒人の命を守れというメッセージを出しているときに、「みんなの命が大事だよね」というメッセージをあえて声高に重ねようとしだす人が必ず現われるが、これは実際上は差別構造の指摘をうやむやにすることであり、自分の意図に本人が気づいていなくても、欺瞞と抑圧を上塗りする行為だ。

 

既にある差別構造を是正しようとすれば、ただちにそれを打ち消そうとする反動がおこってくる。多様性はこれから生み出すのではなく、既にあるのであるが、それが差別構造によって抑圧されている。だから多様性を重要視するというのであれば、現存する差別構造、差別であることを見えなくしているような人々の考え方や態度を指摘していくことが必要になる。

 

そのような指摘はまず「ネガティブ」ととらえられるが、そのことによって多くの人が救われていった結果、やがて常識になっていく。50年前は、重度身体障害のある人が自由に外に出歩くこと自体が眉をひそめられるようなことだったという。それは世間の常識だった。しかし、少なくとも今はその感覚は公に出されれば否定されるものになっている。いつまでも変わらない差別者はいたとしても。