降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

当事者研究界隈、どうなっているのか(6/24追記)

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べてるの家の関連施設、べてぶくろで地域住民との間で性暴力被害がおこった。被害者のブログによると、被害者の訴えをきいたべてぶくろスタッフRは訴えを公にするとべてぶくろが地域でやっていけなくなるとして、被害者を黙らせようと働きかけ、その態度に抗議する被害者を批判した。べてぶくろは組織としてそのスタッフRを容認し、擁護した。被害者は孤立し、ヘルパーの仕事も続けられなくなり退職してしまった。

 

それに対してべてぶくろ代表は、被害者に対してその問題を被害者個人の問題として自分が納得するよう”当事者研究”するように働きかけをしていたという。

 

被害は2015年におきており、被害者はべてぶくろから被害に向き合うことがされないまま、自分の非のように感じさせられながら、5年我慢したのち、ブログで法人としての責任を放棄したべてぶくろの二次加害の告発というかたちをとった。

 

ブログでの告発に対して、べてぶくろは沈黙したままであるが、当事者研究界隈の顔たる人たちが、具体的な事件や被害者の告発の事実に言及しないまま、安全安心が守られない状況を改善していく旨の声明をだした。不可解なことに、その声明の連名には被害者が告発するべてぶくろの代表の名前も含まれていた。

 

問題は、当事者研究の顔たる人たちが、弱者である被害者の告発に対応するよりも、いわば「当事者研究業界」を守ろうとするアクションをおこして被害者を不可視化し、被害者をケアしようとするのではなく、実態上はべてぶくろを守ろうとしていることだろう。

 

当事者研究というものの体質が、性暴力やハラスメントに対する被害のもみ消しをおこしやすいということを否定したいならば、筋としてはまずは組織としてのべてぶくろの社会的責任放棄を問題とすべきであるだろう。

 

であるのに、べてぶくろの行ったことに対して批判する態度を一切見せないままべてぶくろの代表者と共に声明をだすということは、”当事者研究”を守ろうとしているどころか、当事者研究界隈は身内どうしが権力者となって序列づけられたコミュニティになっていることを自ら証明するようなことになってしまっている。

 

当事者研究の社会的価値をうったえるのならなおさらのこと、べてぶくろがこの状況に対して自ら説明するということが必要だろう。

 

6/24追記:べてぶくろから声明が出された。しかし謝罪というかたちをとっているものの、おこったことを可能な限り矮小化する文面で、被害者の方々が納得できるようなものではなかった。またべてぶくろは、性暴力以外にも不当な労働搾取やパワハラでも告発されているが、そちらへの言及はなかった。つまりこの声明はべてぶくろにあった様々な問題の被害者に対して出されたようなものではなく、「世間」の風当たりへの対処として出されたものと考えられるだろう。

 

この告発とは別件であるけれど、平行するように映画配給会社アップリンク代表のパワハラに対して元従業員からの告発があった。その謝罪文も一見真摯に反省するようで、従業員に直接謝罪していなかったため従業員がさらにその不誠実を告発するという展開になった。

 

それ以前に告発されたフォトジャーナリズム誌DAYS JAPANの代表もそうであるけれど、人権や社会的課題に対して先進的に取り組んでいるような団体の内部において、常態的な人権侵害がおこり、状況が明るみに出てもなお直接の被害者に向き合うことを避けるのは、まるで同じ構造のように思える。また周囲や関係者はその状況を大なり小なり把握しているが、黙っていたり、社会的に意義のあることをやっているからと目を逸らすのも同じだ。

 

社会的に意義のある活動という自他の認識は、周囲からの批判を防ぎ内部からの批判も抑圧する機能をもつだろう。そうして不健全に守られ、閉じられた環境は結果的にいびつな権力の欺瞞と腐敗の温床になる。

 

そもそも、どのような人も無自覚な自己欺瞞をもつものであり、そこに適切な他者の干渉がなければ、やがて自己欺瞞で自らをより疎外していくことを止められなくなるのだと思う。あの人だから大丈夫だ、というようなことはなくて、どの人も無自覚な欺瞞を拡張させる危険性をもっている。

 

これは近代の人間観、意識的で自覚的であり働きかける主体としての人間というイメージを、社会はまだナイーブに信じているということではないかと思う。人間は、自分では止められない欺瞞性をもつものであり、その欺瞞性の害は組織として拡大すれば当然のように膨れあがる。

 

どのような人間も組織もそもそも自己欺瞞を抱えているものであり、その自分では止められない欺瞞性に干渉するものとして、外部の他者が必要になる。この欺瞞性のため人間は決して「自立」できず、自身の止められない自己疎外傾向に干渉してもらうために、いつまでも他者に依存する存在であると僕は思う。

 

閉じられた空間では、健全な干渉をおこなう他者はいなくなり、偏った権力が生まれ、環境は自然に腐敗する。自分はいいことをやっているから正しいとか、あの人はいいことをやっているから無条件に今も今後も信頼できる人だとか、そういうことはあり得ないのだということをそろそろ認めてもいいのではないか。

 

「自浄作用」というものを多くの人が普通にあるもの、備えているものとして語るけれども、外部の他者が介在しなくなったとき、個人にも組織にも自浄作用などないと考えたほうがいいだろうと思う。人間の免疫機構は歳をとると自分を攻撃しはじめると聞くけれど、身体における「自浄作用」のようなものは、そもそももとは他者同士の協働として身体が成り立っているためにおこるものだと思う。組織など自意識で作ったものにおいてそのような他者性はあらかじめ排除されている。

 

人や組織の自己欺瞞性、自動的な権力の偏りに対して、大丈夫だなどと高を括ることはできない。そもそもいびつになるものだという認識のもと、いつでも崩れうるバランスに常に注視し、いい意味での干渉がおきる環境や仕組みを確保する必要があると思う。

 

ウイルスソフトがアップデートし続けなければいけないように、自動的に偏りはじめるものに対して、内部と周囲もまたのみこまれず、自律した思考と距離をもち、環境を更新させていく存在になり続けていくことが、人や組織の自己欺瞞性とそこから派生する暴力を最小限にとどめる前提となると思う。

 

当事者研究は、「自己病名」をつけることによって、医療や専門家から名づけられ奪われていた主体性を自らに奪い返すものであったと思う。しかし、主体性の回復のためには、それでもまだ足りなかったのだと思う。病名をつける専門家が当事者研究を教える専門家に変わった。専門家は従わせる権威をもってメンバーをおさえつけた。当事者研究の専門家になった人が自らの権力性を自覚して更生する仕組みは考えられてなかった。

 

枠組みを作る側と享受する側、思想を生産する側と消費する側、というような立場に固定されてしまうなら、思考の主体性は奪われてしまう。誰もが自己欺瞞性をもち、放っておけば偏りが増幅していくことは避けられない。

 

人や組織が必然的にもつ自己欺瞞性に対して、当事者自らが枠組みを考え、生み出し、調整していく必要が明らかになったのだと思う。自己病名をつけても、主体性はまだ奪われたままだった。誰かの考えた枠組みに従うだけであるならば、思考の主体性は奪われたままだ。主体性は、自らが思考し程よい枠組みを考え、調整していく運動によってようやくリハビリされ、機能するようになっていく。主体性を回復するためには、それぞれの人が自身をアップデートされるウイルスソフトにしていくことが必要なのではないかと思う。

 

べてぶくろは先例として、被害者の方たちに向き合い、更生してほしい。それが最も見せるべき姿であり、社会に対する希望の提示なのではないかと思う。間違いをおかして、間違いへの向き合いを最小限に回避するより、おかした間違いから自身が更生する姿を提示することで、べてるの言う「安心して絶望できる社会」ができるのではないかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

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6/28追記・訂正:被害者の方から指摘がありました。退職されたのはべてぶくろからではない、ヘルパーの仕事でした。また当事者研究をすすめてきたのはスタッフRではなくべてぶくろ代表や向谷地生良氏であったとのことです。間違いをお詫びし、該当部分を訂正させていただきました。