降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

心の攣(つ)りに対してできること

日常で出会うこと、連想したことなどがきっかけとなって、これまでもなんども繰り返さてきた苦しい感覚や責められる感じなどが再現され、一度その状態がくるとなかなか元に戻らないとき。

 

筋肉が攣(つ)って、しばらくどうしようもなく痛みを経験させられるように、関連する感じのきっかけがきたら、その状態がおこり、たえがたい「攣り」に苛まれるとき。

 

その時におこる嫌な思考や気持ちに対して、意思的に「肯定的」な考えや強引な気持ちの切り換えで対応しようとするけれど、あまり効果がないとき。

 

劇的な回復を期待しないで、ぼちぼちの対応をしていくと緩和するように思える。劇的な回復の期待は、追い詰められた思考の反動であり、それ自体がいわば「症状」なので、状態の経過には向かわない。

 

自意識が想像している劇的な回復は、ほとんどの場合、普通の自分ができないことをすることを仮定しているので非現実的であり、かつ達成できなかった時の失望でさらに状態が停滞する。追い詰められた思考にしたがってもいい変化はおきない。

 

整体の稽古で知ったことがあるのだけれど、体の各部分の動きというのは、何かのきっかけで一度決まった動きがたとえ間違っていても、延々と繰り返されるということ。だから、ある部分は20年前に決まった動きを延々と繰り返していて、他の部分は5年前に更新される機会があって、5年前に自動化した動きを繰り返している。

 

体にはこのような傾向があるとして、この考えを上記の「心の攣(つ)り」に応用してみる。心の攣りが身体の反応ぬきに純粋におこっていることはない。心の攣りがおこっているときに、攣りに関連して、体の部分で緊張したり、感覚が出ているところを探る。

 

「探る」状態のとき、精神はふだん自動的にしている遮断を解く。この遮断は、カクテルパーティ効果(非常にうるさいところでも興味のあることや聞きたいことは聞ける現象。)のように、聞きたいことを聞くために行っている(ほぼ無意識で自動的に設定されている)のであるけれど、同時に聞きたいこと以外のこともそこではおこっているのに、それを無視してしまう。

 

発達障害の事例などを聞くと、ある人たちは、この遮断が自動化しないので、必要でない情報をひろい、非常に混乱してしまう。

 

人は現実をそのまま認知しているのではなくて、あらかじめ自分も無自覚に選択的に遮断しており、その結果として、特定の状況に対して迷いなく判断し、「機能的」に動ける。

 

しかし、それは同時に多様な現実を否定して、選択的な現実を現実だとしているという代償も伴っている。すると、現実は多様であるのに、ある人は選択的に切り取られた「同じ現実」ばかり体験する。

 

おそらく人は「探る」という状態を自分にあえて持ち込まなければ、自動化して認識される「同じ現実」を見続けてしまう。探るという状態は、そのような自動化した反応をいったん落とす状態であると思われる。落としたことによって、別の現実が見えてくる。

 

自動化している過去の繰り返しを終わらせていくにあたっては、「探る」という状態を自分にもたらすことが必要であると思う。

 

さて、心の攣りがおこったときに、体を探る。すると、この心の攣りに対応する体の部分がなんとなくあることがわかる。耳の裏側のあたりぐらいかなとか、はっきりした感覚でなくてもいいので、この部分のこういう感じかと思ったら、次が見つかるまでは、とりあえずそこを観察し、探る。

 

あまり気づかないかもしれないが、探ること自体が「攣り」の状態を緩和している。探るのをやめると、自動化した刺激と反応の繰り返しにまた戻る。ここで、こう思おうとか、こうしようとか、思考を介在させても、それは実際には抑えこもうとしているのであって、かえって攣りを再固定化してしまう。

 

攣りは固まった過去であると思われるので、そこに必要なのは止まった時間が流れることであり、経過の過程がすすむことであると思われる。

 

攣りがおこったら、それ自体が耐え難い気持ちはあれど、そのときに無理やり違うことを考えようとするのではなく、まった嫌な気分を強化するのでもなく、体のどの部分にどんな緊張や感覚が生まれているのかを探る。あ、これだと思っても、それですぐやめずに、その感覚をより詳細に感じてみる。

 

ただちに嫌な感じを遮断したり、切り換えたりしようとせず、おこっていることを詳細に感じ、探る。意識としては探ることで結果的に緩和させるぐらいのつもりで臨む。

 

緊張している部分を認識しながら、同時にそこに呼吸をいれるようにする。呼吸をいれるとは、止まった状態にしないということなのだけど、自分が息をつめてしまうと、緊張は緊張のままで経過せずに固まってしまう。

 

実際に自分の息も詰めず、かつ感覚のある部分にも自分の呼吸と連動するようなイメージをもつと、思考でぱっと遮断したり切り替えたりてしまう癖を乗り越えて、その感覚を感じながら共にいることができる。

 

息をつめず、感じながら、その感覚と共にいることで、その部分の時間が動いていく。プロセスが動いていく。心の攣りに対して、そのようにつきあっていくと、心の攣りがありながら、同時にその部分の緊張なりを感じながら、過緊張しない状態が並存できるようになっていく。

 

これで半分ぐらい元々の攣りの状態よりマシになっているように思われる。大事なことは攣りを消そうとするのではなくて、探りながら、当たり前のものとして(つまり息を詰めず、呼吸しながら)共にあること(感じ続ける状態が保持されること)で、プロセスが経過していく。感じかたが変わっていく。