降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ブルーシートの服について(1):非礼拝的オーラを読んで

山口さんの文章を読んで、生きているものとは何かについて、もう一度整理したくなった。

 

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僕は去年、ある読書会でピーター・シンガーの『動物の解放』を読んだ。僕が担当したところは、鶏や牛や豚が工場畜産の現場において、人間の経済性のためにどこまでおぞましく扱われているのかといった部分だった。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

記憶では、鶏の雄のヒナは不用のため、ベルトコンベアでどんどんと袋のなかに投げ込まれ、上から投げ込まれるヒナの重さによって圧迫死させられ、その後すり潰され、雌のヒナの餌にされる。

 

大きくなった鶏も単に外的にひどい環境に入れられるだけでなく、卵を増産するために、わざと夜も光を当て続けられ、羽が生え変わる時期を早められるなど、生理サイクルすら干渉され、撹乱された状態にされる。

 

食肉用子牛は、肉の見た目を良くするためにわざと餌から鉄分が抜かれ、慢性的な鉄分不足の状態で育てられる。

 

僕自身も酪農実習生を1年やっていたので、畜産が動物に対して非倫理的なやり方で行われているのは知っていた。

 

たとえば、牛はフンをするときに上に伸び上がるが、それだと牛床(牛が繋がれて寝食する場所)にフンがされ衛生状態がさらに悪化するので、牛の上にはカウショッカーという電気が流れたギザギザの歯が吊られる。牛が伸び上がるときにカウショッカーでバチッと衝撃を受け、牛は上ではなく、体を長くするように後方に伸びる。するとフンをする位置が牛床の外のフン処理用のベルトコンベアの上になるという仕組みだ。

 

その時は考えてみたらロクでもない虐待だなという程度の感情だった。自分も普通にその仕組みを受け入れていたといえる。

 

だが、『動物の解放』で、外的な環境だけでなく、生理サイクルまで常時干渉され、撹乱されているのを知ると耐えがたい感覚になった。初めて自分がそうされた状態のあり得なさを感じた。なるべく非虐待的な方法で殺されたものを買うようになった。

 

読書会の時に思ったことは、これを自分たち消費者のかわりに実行している人たちも、自分が何をしているかに無感覚にならざるを得ないだろうということ、そしてたとえ無感覚になっても確実に避けようのない影響を受けているだろうということだった。

 

そこでイリイチの近代における生命観の批判を知った。イリイチによると、近代以前においては生命とは世界と一体のものであり、相互に影響を与える存在だった。ところが近代になると生命とは一個の生物が所有する閉じたものとなった。一個体に一つの生命というわけだ。

 

近代以前の生命観とは違って、近代以降の生命は単体で完結している。すると、生命活動を維持することが至上の意味であり倫理なのであって、その生命が周りとどのように関係しているかは二の次のことになる。つまりある人がどのような不本意な状態にあっても生命活動の維持が優先される。

 

虫籠のカガステルという物語においては、主人公の母親は生物兵器を操るために意識を奪われたまま培養されている。母親はもはや培養システムなしには生きていけない状態になっている。主人公は最後に母親をその培養から「解放」する。

 

comic-ryu.jp

 

主人公は母親の「生命」を直接的に断つことになるわけだ。イリイチの批判する近代の生命観においては、何がどうであれ、他者のものである財産を奪うことは許されない。だが、「生命」を一つ二つと数えることがおかしいと考える時代にあれば、その行為はお互いを新たに生かすものであるだろう。近代の生命観を当たり前だと思っている自分たちにとっては許されないことであっても。

 

あるいは物語ではなく、こんな体験を思い出した。田んぼの周りで遊ぼうとする子どもを田んぼの持ち主が叱りつけるところを見た。田んぼの所有者はこう言った。

「お前に何かあるとお前じゃなくて俺のせいになるんだぞ!」

 

そのような場所では子どもの中に生きて躍り出ようとしていた可能性は、そのままずっと封印されるだろう。危険をゼロにして生命を守ることができると考える人間の疎外。稲刈り体験を鎌でなく安全なハサミにした活動もあった。鎌の扱いを教えるのではなく、自分が不安を感じないために他者を完全に管理するやり方。そして「何かあったらどうするんだ」という決まり文句。

 

行き場を失った3万人が自殺する社会で「何か」はすでにおこっている。むしろ個人の生の完全な管理が自分の以外の他者(当然「危険」もある)との関わりから生まれる生命力をあらかじめ奪っているのではないだろうかと思う。

 

一つに完結した個体に見えるものも、実際には自分以外の他者との関わりによって自身の可能性を発現させ、他者との関わりにおいて自身を更新している。自己完結した「生命」とはそのまま世界からの疎外であり、世界からの孤立以外の何ものでもないと思う。

 

生命を完全に管理することはできない。生命自体が他者なのだから。それは自意識の所有する「財産」ではない。エーリッヒ・フロムは生命を余すところなく管理するのはサディズムであると指摘する。フロムは次のように言う。

 

サディズムの目的は人間を物に、生けるものを死するものに変えることである。余すところなく管理し統制することによって、生命はその本質を、すなわち自由を失うからである。

 

完全な管理とは、他者に対する尊厳を捨てることであり、生きるものに対する虐待だろう。今、完全な管理は畜産にとどまらず、人間をその対象にしている。

 

山口さんの文章にあるオーラとは、僕はイリイチの指摘するところの近代以前の、生き物に限らない事物同士、他者同士、あるいはモノでもない関係性と関係性の協奏であるように思える。それをお互いを高め、お互いを別のものに更新しあう。

 

更新とはあるものが終わることであり、それは破壊とも関係がある。破壊するものが、同時に自分を更新するものであり、この両義性を受け入れないと、生命を至上の財産として、つまり死物にして余すところなく管理するサディズムを止めることができない。

 

(しかし近代以前の生命観や生のありようを表現しようとするとき、どうしても「響き」や「協奏」、「震え」のような音楽的な表現をするしかなくなってしまう。そういう表現の仕方は自分にもまだ馴染まないけれど、表現しようとするとそうなってしまう。)

 

現代においてより疎外されているのは、他者との関わりの豊かさではないだろうかと思う。ある人にとってはブルーシートは憎いものの象徴であって、別のある人にとってはブルーシートがもつその価値の無さこそ、価値そのものでありうる。

 

大島弓子の『ロストハウス』では、主人公は厳しく管理統制された自宅ではなく、あるときごちゃごちゃにモノが置かれた部屋を発見してそこで不思議な安心を得る。

 

www.hakusensha.co.jp

 

芦奈野ひとしヨコハマ買い出し紀行」では、世界の陸地は温暖化(?)によって海に呑み込まれることが避けられず、人間が築いた文明はゆっくりと時間をかけて海に呑まれていき、その分だけ時計が巻き戻るように懐かしいような空気感をもつ暮らしに戻ってもいく。

 

grand-spring.com

 

自然の支配者であり、世界の管理者だった人間はその地位を追われたが、そのことによって成長や発展への強迫的で義務的な邁進からも解放されている。

 

かつての時代においては、非生命的なものの象徴であり、世界を席巻し、埋めつくしたコンクリートも今では時代の名残りでしかなくなり、夕陽がそれに残したあたたかみはささやかな、儚いめぐみとして感じられる。

 

オーラとはモノとモノが、あるいは関係性と関係性が響きあい、震えあう協奏であるのだと思う。そしてその協奏の多様性は画一化した場では減少してしまう。

 

それは例えば、オンラインを通したやりとりが人の体験としては一律に不十分だということではないと思う。新型の感染症が流行るこの状況で、劣ったものとして認識されていたオンラインの可能性に驚き、見え方が変わったという声もネット上では散見される。

 

分身ロボット「オリヒメ」を通した遠隔操作での体験が対面ではコミュニケーションが難しかった人たちの可能性をひらいてもいる。対面が最も豊かであり本質であるというような考えこそ画一的であるのだろう。

 

orihime.orylab.com

 

何が何に反応するかわからない。オーラとはある人には重要であり、ある人には全く無用であるような、特定の用途に設定するにはあまりに「無駄」な影響性という面があるのではないかと思う。

 

礼拝するもののオーラが特定の影響を何かに与えるだろうし、もしそればかり狙って環境を埋めつくしたならば、そのオーラでは協奏できないものが疎外されるだろう。だから世界には常に協奏の余地が残され、管理できない他者性が残されていることが必要なのだろうと思う。

 

今までを整理すると、近代の生命観においてはそれぞれの個が自己完結した存在であり生命は所有している財産とみなされる。

 

その生命観において生命は、その自己完結性ゆえに危険でもあり、生に新しい可能性をひらくものでもある他者の価値を不当に位置づけている。そのため、自身の生の可能性や更新を活性化できない疎外状況におかれている。

 

他者は破壊をもたらすものであり、同時に大きなめぐみをもたらすという両義性をもち、そもそも生は他者に圧倒的に依存している。

 

近代以前の生命の捉え方は、モノや生きもの、関係性が、お互いに隔絶されているのではなく、直接的にひびき合い、影響しあって、その響きあいを前提に存在しているというものだと思われる。

 

そこでは、動物を徹底的に虐待するかたちでの畜産などはありえないということになるだろう。なぜなら響きあいの結果として生命力は高まるのであり、他者との響きあいこそ生命の本質であり、自分の本質であるのだから。一方を虐待し、自分は影響を受けず高まるということはあり得ないとなる。

 

オーラとは、他者に向けられて発されている響きそのもの、影響性そのものであるのではないかと思われる。ただし、あるオーラの影響性は万物に響くわけではなく、つまるところオーラとは自分や誰かがあるものに対して反応があるかないかということによって、結果的に存在が判明し感じられるものではないかと思われる。

 

たとえばある人にとってはブルーシートに何も感じられず、ある人にはオーラが感じられるというように。常に影響性は発揮されているのだけれど、それに響きあうかどうかは相手によるし、響きあわなければオーラがあったと自覚することができない。その意味で、どんな相手に反応するかわからない「無駄」が多い影響性としてそれぞれのモノや関係性は存在しているのではないだろうか。

 

したがってなんであれ「これが正しい」として環境を画一的、一律にすることは、誰かと反応するかも知れなかった影響性が発現することを排除しているといえるだろう。

 

その上で最後に生きているものと死んだものについて。

 

生きているものとは、止まっておらず、固定されておらず、動いているものであり、既知におさまらず、変わりゆくプロセスそのものであるだろう。それは他者であり、つかまえられぬ儚さであり、震えであるだろう。芦奈野ひとしの世界では、コンクリートでさえ、生きており、めぐみでもある。

 

一方で、対象化され、止まったもの、固定化されたもの、既知であるものは、管理の対象となり、他者性を失っており、死んだものであるだろう。しかしここでコンクリートでさえ生きていることを鑑みるならば、実際には死こそが概念でしかなく、存在しない虚構であるといえるのかもしれない。