降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

揺り動かしにいく 君島久子「ほしになったりゅうのきば」

中学以前は割とよく本を読んでいたけれど、その後読めなくなった。大学になっても日常的に読めるのは絵本ぐらいの文量で、それがしんどくない限度だった。

 

文化心理学という講義があって、絵本や民話の分析がレポート課題になった時があり、長谷川摂子作、片山健絵の『きつねにょうぼう』を読んだ。

 

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『きつねにょうぼう』は、つるの恩返しなどと同じ類型の物語で、きつねと知らず結婚した女房がある日きつねであることがわかって山に帰るというもの。

 

図書館でイメージ・シンボル事典とかをひらきながら物語の各部分を見ていくと非常に面白かった。たとえば、きつねにょうぼうがきつねであることがばれたのは、子どもが3歳のころで、山一面にさいた椿の花に見とれてしっぽを出してしまったためだったというところ。

 

調べると、3歳とは子どもが一通りの自立ができるようになる時期であり、椿はぼろりと急に花が落ちるため、突然の死の象徴であるとも書かれていた。

 

花として物語に現れてきたのが椿であることが、次の展開である突然の別れを暗示しているとも読めるわけだ。このように民話や物語のなかに凝縮された情報があることがわかった。時を経た民話だけでなく、現代の創作においても、繰り返し現れる物語のパターンには意味がある。

 

文化心理学のレポート以降、複数の物語において現れる共通のパターンは何かを自分なりに考えていくようになった。世界や心のありようを深く納得する手がかりとして絵本や物語を見るようになった。

 

世間で流通している捉え方では足りない、深い納得が自分に必要になったのは中学校以降だ。中学校で不登校になり、フラッシュバックに悩まされるようになってから、社会で流通している人間観はとても皮相で無責任なものだと痛感するようになった。

 

たとえば、つい先日も世間のよくあるセリフに腹が立ったという方がいた。自分がつらい経験をしたことを相手に語った時、相手が「つらい経験をした人は人にも優しくなれるよね」と返したそうだ。

 

一つの経験が傷となったまま回復していないことは多い。自分が経験したつらいことのために余計に不信を募らし、人に攻撃的になる人は多い。Twitter上などは、その嵐みたいなものだと思う。

 

思うに、腹を立たせたのは、相手がつらい経験をしたと語っているのを自分が受けとめるのが嫌で体良く逸らすために自分でも確認していないこと、本当に思ってるかどうかも怪しいことを言ったからだろう。

 

世間で流通している言説は、平気でこういうことを本当のことのように言っている。個人の思想の自立などそんなになくて、個々人は多くの人(つまり強い人)が言っているような価値を自分でも知らず取り入れ、内面化してしまう。

 

自分自身もそんな状態で、しかし取り込んだ価値観が自分をむしばんでいくので、生きるためには別の見え方に移行していく必要があった。絵本や物語はその意味で貴重な媒体となった。

 

民話を題材にした君島久子作の絵本「ほしになったりゅうのきば」では、主人公は行き詰まった場面において塔の上に住む存在に力を貸してもらうため、塔を揺らしたり頭突きをしたりする。

 

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嫌がらせのようなことはするのはいけない的な皮相な道徳は人を見えなくする。個人も組織も、他者によって揺り動かされなければ、自己完結した同じ繰り返しにとどまる。それはその通りであり、批判は批判だから悪いというような、批判をひとからげに「ネガティブだ」とする世間でよくある態度は、無自覚であっても現状(そして私)を変えようとするなという抑えこみだろう。

 

主人公は揺り動かしに行く。変化とはどのようにおこるのか。サバイバルのこの世界において、相手が揺り動かされないようなことを正当に大人しく相手に伝えたとしても、それはそのまま放置される。現状は、現状を成り立たせなくすることによって変わる。

 

複数のマイノリティがSNS上でもつぶやいている。自分たちが今まで声をあげていたのにまるで変わらなかったことが、「健常者」が揺り動かされるとなると、途端に変わっていくことには複雑な思いを禁じえないと。

 

社会は他者によって揺り動かされ、壊され、ようやく新しい世界観に更新される機会を得るだろう。いいアイデアをたくさん出したから社会が変わるのではなく、それらは出ただけでは体良く無視される。

 

壊れるべきものが壊れ、成り立たなくなることが必要だ。積極的な意味で、古いものを揺り動かし、結果として成り立たせなくすること。それが環境を更新するだろう。