降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

すでに巻き込まれている世界で

読書会で発表者からシェアされたことを振り返る。

 

フーコーによる自由主義新自由主義の違いが話されていたのだけど、自由主義の段階では、あくまでも国という枠組みの下に資本があったけれど、新自由主義においては国と資本の立場は逆転し、資本が主人となり国はその必要のための変化を求められる調整役となったようだった。

 

今の政権のコロナ対策をみると、それはぴったりと一致するようだ。政権が利権の配分屋でしかなく、政策とはどの利権を選ぶかでしかない。オリンピック招致への未練でだらだらと感染症への対応を遅らせ、満員の通勤電車については向き合えず、「要請」といって、外出抑制のため歓楽街で警察に警棒を手にさせながら威圧するが、経済保障はしない。

 

個人であれ社会であれ、質的な変化は破綻からおきると思っている。言い換えれば、今まで自分がのっかっていたものが破綻するまで人は根本的な変化には向かわない。なんのかんのと言いながらやらない。たとえばフレイレが50年前に預金型(銀行型)教育の間違いを詳細にしても、50年後も変わらず預金型教育が行われているように。

 

「迷惑をかけない」とは、お互いがお互いを管理しつくすということであり、時間を止め、更新をこばむということだ。実際には一方的に踏みつけられている弱者がいて、その改善のためには現秩序を変えなければいけないのだけれど、現秩序を変えるためには多くの人の巻き込みが必要になる。

 

「迷惑をかけない」は、お前のことに他の人を巻き込むな、つまり自分を巻き込むなということなのだけれど、これはそもそも人はすでに巻き込まれている存在であるという現実を拒絶し、弱いものをそのまま切り捨てにすることを正当化する欺瞞であるといえるだろう。

 

この「迷惑をかけない」は実際には道徳に見せかけた処世術であり、他者を切り捨てる保身の開き直りなのであるけれど、これもまた破綻の前に自分たちが気づいてあらためるなどということはできないのだろう。

 

破綻をもたらすものはお互いを管理しつくした内部からではなく、外部からやってくる。自分ではできない。人はこの情けなさと無力を受け入れる必要があるだろう。自分で自分をダメにする力に対しては、他者が自分の強固に閉じたサイクルを壊してくれる以外にない。

 

「休業補償は世界に例がなく、日本の支援は世界一手厚い」という虚言を首相にぬけぬけと言わせられるこの社会環境自体には自浄作用はなく、破綻という第三者が仕事をして環境に風穴をあけ、更新の機会を生んでいくのだろう。

 

日々の暮らしにとって重要なもの、公共的なものを守るのは「国」だった。しかし、実際はそれは建前であり、表面上の取り繕いであったようだ。医療資源をどんどんと削減していたように、国は近代の焼き畑農業のように、世界に本来あった再生産の能力を資本主義が食いつくしていく手伝いをしていた。

 

今、自分たちに必要な文化を一人一人が自分の持っているものをシェアしていくことで生き延びさせようとする動きがあらゆるところで出てきていると思う。一人一人が公共的意識を捨てたままで、国に放任しておけばそれらは滅びるしかない。その意味では本来的なあり方に戻っているのだと思う。

 

国のようなものは自分の権力を強めるために一人一人が自律して考え、自分たちの暮らしを利権が重要な国の決めたやり方ではなく、自分たちの考えたやり方でやっていくのを嫌がる。だがその国の嫌がることをやっていくことで、国はそのならずものの本質から遠ざけられ、マシになっていく。憲法で「国民の不断の努力」が必要と言われているのはそのことだろう。

 

人であっても組織であっても、自分の完結した世界をつくって、自分で自分をダメにしていく自動的な傾向がある。その傾向は自分ではなく、コントロールできない他者によってようやく破綻させられる。たとえばそれは、国にとっては、他者としての国民ということになるのだろう。他者によって破綻させられなければ、ただ自己中心性に邁進していくだけだ。今までいろんな不祥事を隠蔽し、開きなおってきた政権が反省せず、ただ酷さを加速しているように。

 

他者としてやってきた「迷惑」、他者としてやってきて現秩序を成り立たせなくするもの。そういうものに対して、いつもの自己責任論や拒絶回避ではなく、応答することが必要になってきた。なぜ自分がそんなことをしなければならないのか、という考えが通用しない状況になってきた。

 

全ての人はすでに巻き込まれていて、お互いがお互いに影響を与えているのだから、自分は関係ないと高を括ることはもうできない。その考えが欺瞞だということは明らかになった。自分の生のことを政治家に任せて、自分は経済活動と自己実現に邁進していればいいというのは、結局は資本主義が世界に対して行なっている焼き畑農業を加速させているだけだ。

 

どうしようもなく不本意なことがおこっていくだろう。それが他者による破綻だ。嫌なものを遠ざけ、いいものだけを選ぶことは結局できずに、そうしていると大きなツケが返ってくる。当たり前の話しであるけれど、その当たり前を社会は皆で見ないようにしてきた。

 

他者はそれを破綻させる。そして破綻によってようやく壊されるいびつなものがある。他者を拒絶することをやめ、今までの自分の世界に閉じこもった繰り返しに逃げ込むことをやめ、他者がもたらした状況に応答する必要がある。今までしなかったことをして、世界と新しい関係を結び直し、お互いが人間として存在する新しい環境をつくっていくことが求められている。