映画「プリズン・サークル」の坂上監督が雑誌『世界』で連載されているとのことで書店に並んでいた『世界』の3月号と4月号をとりあえずもらう。
3月号にはTC(回復共同体)の実践を行なっている非営利団体アミティの代表のインタビューもあった。そのなかで特に印象に残ったのが、罪の償いについて。
償いとは英語でatonementなのだけど、その語を分解するとat one with(ともにあること)となり、加害者が被害者のことを理解しているとは、自分が与えた痛みとat one with(ともにある)ことなのだという。
一般には、罪や痛みが消えてしまうことは「いいこと」だと思われている。しかし、僕は緒方正人さんの言葉をみて以来、別のように思うようになった。
現状のように少数の人だけが罪を被り、罪責感を感じるのがいびつなのであり、むしろ世界が健康になるためには万人が自分が遠ざけた罪、忘れた罪の痛みをとりもどすことが必要なのではないかと思う。
坂上監督が最初にトークバックの演劇の現場に行った時、そこで演者と観客のやりとりに衝撃を受けたという。富裕層らしき女性が、「(こんな演劇やったとしても)あなたたちは結局罪人じゃないの。自分の罪についてはどう思っているの?」と。
それに対して演者の一人が、「自分は3歳の時に雪の日に裸で木に縛りつけられていた。その自分をあなたは救ってくれたのか?」と返した。
その富裕層の言動は、のうのうと暮らして社会の歪みを見ようとも助けようともしない人の典型的な語りだった。自分の暮らしが人をどのように踏みつけにした構造のうえで成り立っているのかに無自覚なその語りに対しての返事は見事に本質をついたものだと思う。
罪は忘れられるものではなく、痛みとして取り戻されるものだ。それは人間でいなくなっていたものが、人間にもどることだ。
責任から応答へ。責任とは「ここだけをやったらいい」という限定であり、つまりは無責任な領域を作る行為だ。「環境問題」とは、それまでの個人、企業、国などの責任のシステムでは処理できなかったものが行き場なく投げ込まれた分野だという。
一者だけで完結する「責任」とは違い、「応答」はまるごとの世界と自分が本来的に一体であり、響きあう存在同士であることが前提となっている。そこには相手のことを「自己責任」と切り捨てず自分につながることとして引き受ける態度がある。
緒方正人さんの言葉を最後に紹介したい。緒方さんは責任という幻想からの自由、そして痛みにうたれて生きることを提示する。それはアミティの代表が償い(atonement)をともにあること(at one with)であると言ったこととも深くつながっていると思う。
「罪は普通、否定的なものとしてしか見られていないでしょう。でも俺はもっと肯定的に、我々の誰もが背負っているし、またこれからも背負っていくものだと思っている。責任がとれるという幻想から自由に、いわば責任がとれないという現実に向き合って生きる。罪に向き合って生きる。責任がとれないということの痛みにうたれて生きる。」緒方正人『常世の舟を漕ぎて』