降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

プリズン・サークル 忘れられた楔(くさび)

友人たちと「プリズン・サークル」を観てきました。島根にある官民共同の刑務所で行われているTC(回復共同体)の取り組み。感情を乖離させ生き延びてきた受刑者が自分を、そして他者を、痛みを感じる人間として取り戻していく様子が描かれていました。

 

映画の冒頭で、世界ではTCの取り組みは1960年代に生まれていると紹介されました。それが60年たってようやく日本で一箇所だけ行われるようになったということです。この60年という時間は何なのか。そしていまだに一箇所だけしか行われていないという現実こそ、一番問われないといけないことではないかとまず思いました。

 

おきさやかさんが、日本で生活と一体となっている保守思考の強固さは、もはや(自身に更新作用はなく)外来のものを受け入れることによってしか変われないようになっているのではないか、そして自分たちがもっている思想を意識できないものは生活を通して他者の思想に支配されると指摘していたのを思い出しました。

 

人は、生きるなかで脅威をもたらすものを無化し、無化できないなら感じなくなることによって、生き延びようとします。無化するために、強いものに同一化して人を抑圧しいじめる側になったり、あるいは自分の感情と感覚を乖離させ、自分が体験していることを、感情として体験しなくなります。

 

感情と感覚を乖離させれば辛い気持ちを抑えることができます。しかし、それは自分が自分であるのをやめることを代償とし、それだけでなく人を人間として感じることができなくなります。偽りの自己が前面で固定化し、自分としての体験ができなくなるので、自分の時間は止まります。受刑者たちは、幼少期からそのような感情の乖離を強制されてきたので、そもそも偽りの自己以外のものを知らずにきています。

 

40人で行うTCのグループのなかでは、自分の感情を話すことが重要視されていました。抑圧していた感情を話すなかで、受刑者たちのなかで新しい感覚が生まれてきます。僕は野口整体の稽古をするなかで、感覚とはプロセスであるという認識を持ちました。ただの感覚というものはなく、何かの感覚は動こうとしている時間であり、止まっているものを動かそうとしているものなのです。

 

こうもいえるのではないかと思います。人間の回復へ向ける変化の作用は自律的であり、感覚は自分が知っている以上のことを自分に体験させようとノックしているのだと。

 

感覚は主観性とされ、権威ある人や本などのいう通りにせよ、と世間は言うかもしれませんが、それはひどい嘘だと思います。自分の感覚を通して、人はようやく世界と出会うのです。感覚が未分化でもそれを使っていくことによって、それは分化していきます。間違いが何度かあったとしても、つまるところは感覚とやりとりしてそこに応答していく以外に、自分が自分になっていくあり方はないのだと思います。

 

受刑者の、米を洗っていて釜から溢れてしまったのさっと洗って釜に戻そうとしたらそれを後ろから見ていた親に顔をシンクに何度も押しぶつけられ、前歯が折れたという話しや、妹を砂場に放っておいたために警察に連れて行かれたと責められ、たばこで手を焼かれたけれど、痛みより圧倒的な恐怖のほうが強かったというような話しは、彼らが周りの人達より圧倒的に過酷な状況に置かれていたことをまざまざと感じさせられました。

 

受刑者の「人間は平等だと言うけれどまるで平等じゃない」と言うセリフもその通りと言うしかありません。ここの社会ではどのようにその人が不平等で困難を抱えていたとしても、そんなことはチャラにして、みな平等だからみなと同じ水準で生きろとされます。

 

社会の欺瞞、それが弱い人に押しやられるのだと思います。金儲けに都合のいい世界観、人間観、人生観が幅をきかせて、みんなそれを信じてしまいます。(よく考えたら結局お金の有無が介在する)「幸せ」になるのが生きる目的だとか、自己実現するのがいいのだとか。

受刑者の言葉で僕が受け取ったのは、楔(くさび)という言葉でした。取り返しのつかないことを忘れるのではなく、自分を人間に戻すための楔は、全ての人に必要なのではないかと思います。

 

あまりピンとくる人はいないように思いますが、僕は自分がまっさらで何の罪もないととらえている時に人は人間になる契機を失っていると思います。そんな何かを気にして生きなければいけないなんて時代錯誤で馬鹿げていると思われるかもしれませんが。

 

少し前に僕は『赤毛のアン』を読みました。アンたちはとても自由に自分勝手がすぎるほどに色々と空想したり希望したりするのですが、その空想と同時に自分がそもそもとても罪深い存在であるのだという認識があり、何を考えようと、何を希望しようとも、そこに立ち戻って判断を下していました。それは僕にはとても新鮮に見えました。

 

アンの物語では、その自分が罪深い存在であるというのは宗教的なものでした。ですが、僕は宗教は信じなくても、その楔の部分、自分がそもそも欺瞞的で罪深い存在なのだという認識は、取り除いてはいけないものなのではないかと今は思うようになったのです。

 

保育園はうるさいから建設反対、薬物依存症者の回復施設も怖いから反対、子ども食堂に高い車で乗りつけて金持ち話しをして10円払って帰っていく人、そういう実際にいる人たちを見て、僕は人間の見本だなと思うのです。

 

楔がなければ、人間はもともとこうなる傾向を持っているのではないでしょうか。そして自分が罪深い存在だと思わずに、取り返しのつかない罪をおかした人をゆるしたりできるでしょうか。罪をおかした人が立ち直る仕組みの拡充をなどという前に、楔を失った自分がもう一度楔を見つけるために彼らという現実に向かいあうことが必要なのではないでしょうか。