降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

1/24 私の探究・研究相談室 発表原稿

発表:「意思をもった主体? 管理する主体? 意思・自律性・責任・応答」
 
 意思・・・。「意思をもった主体」であることが人間の人間たる価値とされています。たとえば、自分の将来のために意思的に勉強しておくとか、良いことを頑張ってするとか、です。「意思が弱い」とは、衝動や怠惰に負けて、「発展」的なことや「生産」的なことをやらないという意味かと思います。

 

 将来に向けて勉強したり、計画をたてたりする。それが意思する主体のあり方でしょうか。アリとキリギリスのお話しでは、キリギリスが冬の準備をしていなかったのでキリギリスは寒空の下、路頭に迷います。このお話しは象徴的だなあと思います。意思する主体に価値があるというよりも、実態は、もともとある衝動や感情を管理して、すべきことをする存在であることに価値が置かれているのではないでしょうか。宿題をちゃんとやっておく子、準備を事前にやっている人、日々努力して何かを身につけ、蓄積して将来に備える人など、それは意思するとも言えますが、より実態に近づけるなら、「(衝動的で怠惰な)自分を管理する主体」として人間に価値がおかれているように思うのです。

 

 ですが、衝動に負けず、怠惰に負けず、やるべきことを常にやる存在が立派であり、あるべき姿であるのでしょうか。もともとの自然な衝動や行動は無軌道なものであり、手綱をもった騎手のように馬をコントロールする「わたし」があるべき姿の「わたし」であり、体や心は騎手であるわたしというよりも馬のようなものであるのでしょうか。馬を管理する存在こそ本当の「わたし」であって、馬のほうは単なる衝動であり、本当の「わたし」ではないのでしょうか。

 

 本当の「わたし」は理性的に、生産的に心身を管理する主体でありうるのでしょうか。管理するには、それ相応の教養も必要でしょうし、自分が良いようにと思っても間違った見識をもった人が何か大事なものを管理すると大変なことになってしまいます。「管理する主体」は本当に「管理する主体」の資格をもっているのか、私は疑問に思ってしまいます。

 

 ここ2年ほど、整体の稽古に通わせてもらっているのですが、そこでは体を適切に動かすために、「型」というものを使います。「型」という技法をへると、体のある場所に直接意思的なコントロールがきかない状態になり、その結果、意思によって切れていた体全体のつながりが回復して、無理のない動き、伸びやかな動き、力強い動き、安定した動きが出ます。それは自分が意思でやっているというよりは、体のもともとの自律的な動きが出る感じです。やっている感じではなく、そうなってしまう感じの方が強いかもしれません。武道など、瞬時に適切なリアクションをしなければ意味がない分野では、意思を使った実感があるときの方が動きは悪く、自分では実感がないほうが適切な動きをし、高いパフォーマンスが出るとも言われているようです。

 

 稽古に通っていると、体はとても精妙にできているのに、それを使う自分があまりに雑に、未分化にしか体をとらえておらず、つきあいもできていないことがよくわかります。「管理する主体」であるわたしより、管理されるはずの体のほうが賢く、「管理する主体」たるわたしは、体のもともとの精妙さや自律性に耳を傾けて、ようやく少しだけマシになっていくのです。

 

 「管理する主体」のほうがどちらかというと馬鹿で、管理されているはずの体のほうは誰に教わらずとも自律的に合理的で精妙で適切な動きの展開を内在しています。稽古において、この逆転が当然であり、リードしているのは騎手ではなく、馬なのです。管理する主体が知っていることはとても限定的であり、また経験したことしか知りません。つまり管理する主体は過去に閉じているのです。

 

 このことから私の身体観は次のようになりました。体のほうが賢く、管理する私、自意識の方が愚かであるのだから、私という自意識は、王様のように自分が正しいと思うことを命令して体の管理をするのではなく、体に教えてもらって、悪い頭やものの見方を更新してもらう存在なのだ、と。自意識と心身の上下関係は逆転しました。それは屈辱的なことではなく、むしろより智恵に近づくことであり、体という賢い他者に主役をゆだねることによって、新しい世界がひらけていくので、むしろ面白いのです。

 

 このような経験から私は意思というものにわりと疑いをもっています。頑張って勉強したり、訓練したり、というようなことを否定するわけではないですが、古い自分を肥大化させるようなことよりも、むしろ古い自分が更新され、新しくなっていくほうが重要なことではないかと思うのです。頑張った自分に自信をもって殻が厚くなってしまうと、自分や自分の古いやり方に必要以上こだわってしまい、体の声のような他者の繊細なささやきが聞こえなくなってしまうように思うのです。
 

 パソコンやスマホのOSは古いままでアプリだけ増やしていくのではなく、ある程度の時間がすぎたらOS自体を更新することが必要です。OSは、固定的なもの、永続的なものでははなく、移行的なものです。自意識である「わたし」ももしかしたらOSと同じように移ろいゆくものであって、しっかりとした自分がいったんできたら生きている間は同じままに続くようなものではないのではないでしょうか。

 

 さて、意思について以上の考察をしたうえで、次に「責任」という言葉を考えます。「責任」は非常に「意思」と密接な関係をもった言葉です。あることを「意思」的にやったのか、それとも「意思」を使えない状態でやったのかの違いで、人が罪を問われたり、無罪になったりします。社会生活においても、責任ということは非常に重く個々人の心にのしかかってきます。責任とは、意思によって果たされるものであり、意思によって堅持されるものです。それは社会を無軌道にしないために一定の役割を果たしているようですが、その実、責任は人々の心に重い荷物を持たせ疲弊させ、さらにはそんなに実効性がないのではないかということも疑われるようになりました。

 

 たとえば、薬物依存の人に対する日本のひどいバッシングは、北欧などからみればとても後進的なものとして認識されることでしょう。責任とはつまり罰なのです。罰で脅して人を動かすのが責任なのです。ところが薬物依存の人を罰してもその人はよくならないということは様々な調査によって明らかになっています。稽古の話しで述べたように、「意思」による心身の支配はあまり機能的ではなく、雑であり愚かであり、むしろ反動がおきてこじれるようなものです。現在の日本のように、あまり意思する主体のコントロール力を万能視するのは問題でしょう。むしろ意思する主体、管理する主体としての自意識は馬鹿なのだから、他者である体の声を聞き、体と応答関係を結んでいくことのほうが事態を展開させていくのです。

 

 責任は英語では、responsibility(レスポンシビリティ)というようです。レスポンスとは返答であり、応答ということでしょう。「責任」という言葉が責められる「責任」ではなく、応答であると考えると見え方がまるで変わってきます。責任は強制であり、義務ですが、応答はあくまで任意です。意思によって、ロボットに命令するように自分を無理矢理動かすのではなく、応答という自由な自発性によって成り立つもので社会は構成されてもいいように思います。

 

 原発事故を見ても、どれだけ重い責任をかけても、社会的に強い立場にいれば、あるはずだった「責任」は回避され、「責任」という言葉の役割は機能不全になっています。またあることに責任をとると表明することは、裏返して言えば、そのこと以外には責任を取らないという表明でもあるのです。勤務時間の自分の仕事の範囲だけには責任を持つが、乱獲されるままのウナギが絶滅しようが、日本の企業が海外で抑圧的な政府や企業を援助していても知ったことではない、自分は関係ないというように。

 

 一方、応答は自発的で自由であると同時に、範囲を持ちません。この範囲だけ応答するというのは、応答ではなく、「責任」なのです。責任逃れのために、責任を持つところを限定的に決めるのが「責任」の本質のようですから。応答は、日本からすれば地球の裏のアマゾンの火災にも、アフガンの援助にも、マイクロプラスチックの問題にも向けられます。

 罰のある「責任」、無責任になるための「責任」ではなく「応答」のほうが強い力を持っているのだと思います。様々な芸術活動や著作活動は、強制的に付与される「責任」によってなされたでしょうか。いえ、そうではなく、誰に頼まれたのでもなく、自分が世界に対して応答した結果として、良いものが生まれているのではないでしょうか。人権のために命をかけるようなことをした人も、その人は責任から無理矢理やったでしょうか。それなら悔しさも恨みも残るでしょう。応答は義務ではありませんが、そこでは「責任」以上のことがなされます。人々が自らを重い責任で縛るより、応答というあり方に目を向け、応答の可能性を生かす社会に変わっていくことが望まれるのだと思います。

 まとめる時間がなくなったのですが、最後に責任と応答のそれぞれに関わりの深い要素を列挙したいと思います。

責任 →罰・重圧・強制性・疲弊・限定的(ある部分に責任を持つ代わりにそれ以外のものに応答することを拒否する)・生きているもの、プロセスを一旦殺して機械のように扱う態度・すでに決まったイメージを崩さないためにやる・決まった世界に閉じている・自己完結している
応答 →自発性・創造性・自由・展開性を持つ・大きな力を持つ・他者の存在を前提としている・生きたものを生かすことが目指されている・新しい状況を作り出す(古いものを終わらせる)