降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

なんでもなくなる

回復とはどういうものか、そしてどうやってその過程にはいればいいのか、ということを考えてきた。

 

回復を意識すると回復は停滞する。それはなんども言及してきたけれど、そう言いながら、この言葉自体が回復を目指してもいる。回復するために回復を意識するな、直接に指向するな、的な。

 

意味なく時間を潰していても、追い詰められなくなった。前は何か生き延びることにつながることをしなければいけないのにできない、と自動的に追い詰められて、余計に動けなくなっていた。それが毎日だったけれど、そういう追い詰められがなくなった。

 

回復したら生きていくことがひらける、というイメージがあったかもしれない。確かに地に足を着けて進んでいける。そういうふうに思っていたかもしれない。

 

だけれど、そういうふうにはなってはいない。ただ強迫の一つが抜けただけで、他は何も変わっていない。今後も別に生きていける可能性がひらけたり増えたりしたということもない。

 

近くの映画館で「解放区」という映画をみた。行政から助成金をもらって映画を作ったそうだけれど、釜ヶ崎だと明らかにわかるような映像があったために、結局助成金はもらえなくなった映画だそうだ。

 

www.youtube.com

 

映画の主人公は映像をとるという自分の夢を追うために釜ヶ崎にくるけれど、財布はとられ、日雇いに出れば釘を踏み抜き、パートナーには愛想をつかされ、クスリにまで手を出してしまう。これは自分の明日だなと思う。少しのバランスの崩れで、あれよあれよとこうなってしまうだろうと思う。

 

言葉をもった人は、裸のミノムシみたいな自分の脆弱さや弱さに耐えきることができず、ミノムシが手近なものを貼り合わせてミノを作っていくように、自分の殻を作っていく。殻づくりは自動的であり、無自覚にすすんでいく。

 

www.youtube.com

 

殻によって、人は自分の弱さや痛みを感じなくしようとする。何かを得たり、何かができるようになりたいと思うことは、殻をつくろうとする衝動でもある。その殻を得たとき、人はもともともっていた不安や弱さ、痛みを感じないところにおしやることができる。

 

それは実のところ欺瞞(自分を騙すこと)と抑圧によって感じなくなっただけであるのだけれど、自動的なので本人も自分がどんな欺瞞を生きているのか気づいていない。痛みや弱さが直接に感じられなくなるまで遠くにおしやることができれば、殻づくりは完了だ。

 

殻の弊害は、自分が本当に感じていることを感じられなくなること。それは自分だけにとどまらず、殻が厚くなれば他者の痛みにも鈍感になる。応答性がなくなって、自分の世界だけになり、ひどくなれば人からどう働きかけられても完結したことを繰り返すテープレコーダーのようになる。

 

弱さや痛みを感じなくなると書いたけれど、それは自意識では自覚できなくなるということであって、自覚できない混乱とか、恐怖とか、不安には陥る。たとえるなら、怖いという反応が体に出ているのに、自覚は乖離していて、怖がっているということを把握できていないというような感じ。

 

大なり小なり、言葉をもったすべての人が殻を自動的に発達させていく。自動的に自分の疎外をすすめていく。その行きつく先は、何かを得ることによって不安要素を塗り込めて、自覚の外におしやることに成功することだ。

 

ところが、それが事故とか病気とかで、できあがった殻が著しく破損させられると、忘れていた裸のミノムシの脆弱性にもどると同時に、それまで殻で騙していた部分が騙しきれなくなり、世界や他者との応答性がより取り戻された状態に更新される。

 

このとき、人間は大きく変化する。それまで人間でなかったものが、人間にもどるかのように、まっとうな人間らしくなる。ただそれで万事が良い状態に維持されるかというとそうではなくて、不安や痛みを塗り込めて無感覚になっていく自動的な疎外はそこでもまた現れるので、また殻が作られていく。

 

この前みた映画で、こういう話しがあった。主人公は女性から男性になったトランスジェンダーの作家で、差別の無い理想的な世界を描こうとしている。ところが彼のトランスジェンダーの友人は、世間的にはうまく自分がトランスしたことを隠せるので、トランスしている人が周りにもいるなどという疑いを普通の人が持つことのほうが困るという。自分は今幸せだ。だから今の幸せを壊すような可能性のある本を書くなという。

 

誰かがマイノリティだからといって、自分以外のマイノリティを抑圧しないわけではない。殻の話しに戻れば、一旦殻が壊された人も、また新しい殻がだんだんと発達してきて、とりあえず自分が大丈夫になれば、今度はその状態を維持しようとする。

 

喉元過ぎれば熱さを忘れるではないけれど、嵐の最中にいた時は自分と同じような人たちの味方であっても、熱さ(苦しさ)が喉元を過ぎると、たとえ前と変わらず他者が抑圧されている状況が周りに依然とあっても、自分の平穏を維持するほうにと動機の風向きが変わってしまう。今の自分の幸せを維持するために、かつての友人の夢に反対した主人公の友達のように。

 

熱さが喉元を過ぎるとき、本人にとってはもちろんほっとする経験だろう。加えて、熱さを経験する前より優しくなっているかもしれない。しかし、それは同時に自分が今の平穏を維持するための動機のほうが強くなってきたということでもあるのだと思う。熱さがあった時のようには感じられなくなっているし、動けなくなっている。

 

これが僕の人間観であり、回復観だ。他者によって殻が壊されるとき、人間が戻ってくる。自動的に厚くなる殻によって人間は疎外されている。自分だけで自分を健全な状態に維持することはできないし、殻が自然に厚くなるにつれ応答性を失っていく。

 

この性悪説的な見方によって、僕は人間について絶望していると思われるだろうか? 僕はこのバランスに帰着したことで、むしろ自分にも人にも寛容になった。人間をその人が作った思考や振る舞いなどの殻にみるのではなく、プロセスそのものとしてみるようになった。動的な更新のプロセスこそが人間的なものなのであって、プロセスの結果として出来上がった成果物として固まったその人(のパーソナリティ)が「人間」なのではないのだ。

 

民主主義が成熟しているといわれる国でも、極右や排外主義が台頭したりする。僕は国でも人も成熟してよりいい感じで安定していくなんてことはないんじゃないかと思う。ただ、殻が壊れるような事態に見舞われるとき、人間性を取り戻すという循環が繰り返されるとき、いわばいい状態があると、そんなものではないかなと思う。

 

今の自分、ただ強迫が抜けて、安定してしまった。舵は疎外の方向にきれている。

 

で、しかし、疎外の方向はダメだから疎外されない方向にいって、人間性を回復していこうは、結局、別の殻づくりに過ぎない。自意識や自分の思考、自分の振る舞いが本質ではなくて、殻が壊れたときに現れるような、更新のプロセス自体が本質なのだから、自意識は決して価値あるものに到達しない。自分が同一化するものに本質はない。

 

自意識は自動的に意味を求めるものだけれど、求めた意味に本質的な意味はない。どのような生も間違いではないというような言い回しは、そういうことかなと思う。自動的に意味を求めるのだから、自意識がある間は意味に向かって生きるかのごとく生きるようになるけれど、同時に本質的には何をしてもどうなっても同じなのだ。本質的な意味はないのだから。

 

シルヴァスタインの『ぼくを探しに』では、主人公は完全な球体になることが生きていくことではないと最後に気づいた。自分の耐え難い欠損を埋めたいという動機は変わらずにある。しかしその欠損から派生する動機こそ、自分を同じままにとどめず、他者と出会い、生を更新する救いをもたらすものだった。彼は何かに「なる」ことをやめた。ゴールは、豊かな過程をとりあえず作りだすための、仮のものでよかった。

 

natchan0108.hatenablog.com