降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

『表現の生態系』ティム・インゴルドのインタビュー 名詞の動詞化と宗教の語源

別の用事でお邪魔させてもらっていたお宅で紹介していただいた『表現の生態系』のティム・インゴルドのインタビューをちらっと読みました。

 

sayusha.com

現物が手元にないので正確ではないですが、記憶に残ったことは、名詞を動詞化すること、宗教が語源的に「再びつながる」という意味だったこと、など。

 

今年は幾つかの読書会に参加させてもらっていて、宇井純『自主講座「公害原論」の15年』、ダイアン・J・グッドマン『真のダイバーシティをめざして』、酒井隆史『暴力の哲学』など自分一人ではなかなか手に取らなかっただろうと思われる本の内容に触れる機会に恵まれました。

 

自分たちがやっているDIY読書会でもだいぶ前にインゴルドを取り扱ったりしていましたが、ここ4、5年で触れた別々の本が一つのまとまりをもっているように感じられています。

 

インゴルドは、アーティストにとって小石は「小石」という名詞に閉じられるものではなく、動詞として「小石しているもの」と捉えられるといいます。同様に、人間もまた人間という名詞に閉じられるものではなく、動的なプロセスとして「人間している」ととらえられるべきのものであると指摘します。

 

(そういえば「いのちがわたしを生きている」という表現もありました。)

 

そこから連想したのは、世間でいう「ひきこもり」当事者でもあった上山和樹さんが「ひきこもる」という動的なプロセス、過程を「ひきこもり」という名詞に閉じこめて、プロセスをないものとしているという批判です。

 

僕も少し前に動的なプロセスとしての鉤括弧つきの「時間」と、死んだもの、動きを止めるものとしての時間を分けて考えるということをやってみていましたが、インゴルドのインタビューは今まで触れてきたこと、考えてきたことを概観させてくれるようなものでした。

 

今の時代が流通させている見方では、個々人の思考や感情は独立しており、家が壁や戸によって中のものを外から隔絶しているように、個々人もまた別々の存在であるとされています。

 

その弊害はたとえば「自己決定」のように、個人のなかにやりたいことや主体性はすでに存在していて、それを聞き出すことが重要だ、みたいな、雑な割り切りで物事や関わりの手順を決めてしまうようなことにも現れているのかと思います。

 

国分功一郎さんや斎藤環さんたちのやりとりでは、「自己決定支援」から「欲望形成支援」への移行が必要ではと提案されています。主体性ややりたいことというようなものも、閉じた一人のなかで生まれるものではなく(生まれたとしても時代や社会にガチガチに縛られ、閉じたつまらないものなのかなと思いましたが。)、他者との人間的なやりとりのなかで生まれてくるものなのです。

 

小児科医のウィニコットは、母親と乳児を別々の存在に分けて考えるのではなく、一体のものとして考えることの重要性を指摘しましたが、さらに国分さんたちのやりとりを踏まえるなら、母親と乳児の間だけではなく、実際は人間関係に置いて、孤立した思考の主体がいると考えること自体が自然な生のプロセスに反していると考えられないでしょうか。

 

僕は、人の変化において、殻というバイアスの存在を踏まえることが重要ではないかと思っています。殻は環境や他者からの影響を自分の内側に影響させないようにするものです。有能になったとしても、殻が厚くなれば厚くなるほど、その人は自分に閉じ、変化せず、自分と周りの生きているプロセスを感じなくなります。

 

先に「人間的なやりとり」という言葉を使いましたが、人間的なやりとりとは、その人の殻が防衛機制としてあまり強く浮かび上がる必要がない関わりのあり方です。

 

人間的なやりとりにおいては、普段浮かび上がっているよりさらに殻は薄くなっており、そのためその人は心をゆるし、受容的になり、人と響きあう状態になっています。

 

人間的なやりとりとは、相手に対して安心や信頼、尊厳を提供するやりとりです。加えていえば、その人が内在化させているような強迫や不安などまでが一時的に気にならないように、打ち消されていることが肝要なので、場所とか環境なども重要な要素です。

 

人間的な人とは、精神にとって戦場のようなこの社会で、多くの人のように、自分というやわらかいプロセスを失うほどガチガチの殻を発達させ、重武装して生きていくことをうまく避けて、最小限の殻で人や世界と響きあうことを維持している人であるのかもしれません。

 

イヴァン・イリイチは、近代において、個体に所有される一つ一つの生命という生命観を批判しました。所有される「私の命」ではなく、かつてはそれぞれの存在が響きあう一体として生命があり、生きものであるかなしかにかかわらず、異なる存在がお互いの躍動性を高めあう生命観だったというのです。

 

今、とくに心や精神の繊細さに関わる分野では、個人を独立した存在として考えるのではなく、他者を必要とし、他者と響きあう存在と理解するほうが、うまくいくことがだんだんと認識されてきていると思います。

 

響きあうもの。所有できないプロセスそのもの。それを生の本質だと考えるとき、個体のなかに所有され、なるだけ保持され外から影響を受けないように守られる資産としての生命観の延長が今の社会のいびつさをつくっていることが見えてくるようにも思えます。

 

インゴルドのいう名詞の動詞化とは、お金のように管理され、他から離して貯蔵されていい生命観から、他者と響きあうことを前提とし、また必要とする生きたプロセスとしての生命観への転換することともいえるのではないでしょうか。

 

個の身体は物質としてわかりやすく存在しますが、はたして精神や心は個体に閉じて存在しているのでしょうか。ちいさな「わたし」という本質のようなものがこの体のなかにあるかのように。他者や環境と一体として存在するのではなく、独立した「わたし」があるのでしょうか。

 

考えようによっては、個体に閉じた心があるとか信じるほうが、「スピリチュアル」だったり「宗教的」ともいえるのではないでしょうか。

 

(しかし、「日本人の宗教嫌い」とか言いますが、天皇制は多くの人が大好きで、しかもそれを宗教的とは自分たちでは認めないので、自分たちの信じているものは常識で、違う人たちのは「宗教」なのでしょう。それは他宗が嫌いということなのであって、「日本人の他宗嫌い(単に異文化への不寛容?)」というのが妥当なような気がします。)

 

さて、インゴルドは宗教の語源をたどればそれは「再びつながる」という意味だったと言います。何につながるのか。それは世界とつながるということだと思います。世界を外からみる視線としての、身体を持たない「わたし」(それは変わらない(=死んだ)「わたし」です。)ではなく、体験し変容していくプロセスそのものとしての「わたし」には、他者が、そして世界が必要なのです。