降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

リードインの試み 初回

心に残った他者のことばに自分の言葉を添えるリードイン、とりあえずやってみてどういう感じにできるか考えよう、と上高野(左京区)での初めての試み。

 

紹介されたことばは、熊谷晋一郎、茨城のり子、小沢健二、緒形正人、澤田徳子『きらめきのサフィール』の闇の王の娘のセリフ。

 

今回はスマホを使ってもその場でことばを探すのが難しかったので、次回からは気になった他者のことばを二つ、事前にみつけて持ってくることにします。

 

まだどんな感じになるのがいいのかは手探りですが、現段階ではなるべくなら味わいを中心にして、なるべく議論っぽくならないほうがいいかなと個人的には思っています。

 

自分の選んだことばをふりかえると、どちらもバランスについての言葉でした。資本主義社会的な価値観だと「幸福」や「自己実現」というもの自体に疑問が投げかけられることはありません。しかし、本当にそうなのか、と思います。自明視され、疑うこともない前提にされていることこそ、強い抑圧性を持っているのではないかと思うのです。

 

「幸せ」や「自己実現」の獲得に何のためらいもなくていいのでしょうか。それらは本当に純粋なものでしょうか。それらが自明視されているために、一層生きることに苦しみを受ける人がたくさん生まれていないでしょうか。

 

光ある限りまた闇もある。どこかに強い光が集まるとき、その分、他の場所の闇が深くなっていないでしょうか。

 

ルグウィンのゲド戦記において、主人公ゲドの魔法の師匠、沈黙のオジオンは、ほとんど魔法を使わずに生きようとします。なぜなら魔法はもし使わなければあるはずだったものをないものにして、何かをおこしているからです。どこかに魔法で雨を降らすことは、世界の別の場所に降るはずだった雨を奪うからです。

 

「幸せ」や「自己実現」というものが無前提にいいものであるときこそ、全ての人がその獲得競争の亡者になり、その強迫性はより苦しむ人をつくるのではないでしょうか。

 

緒方さんは全ての人が少なからず泥棒であるという視点を提示します。また『きらめきのサフィール』において主人公と恋に落ちる闇の娘は、喜びと悲しみがどちらかだけで成り立たないことを指摘します。

 

「どうして知らずにおられるのかしら? 光があれば影がある。幸せの影には不幸があるし、喜ぶ人のうしろに涙を流す人がいるわ。自分たちの光の影には、悲しみの世界があることに、もっと早く気づくべきだったのよ。」澤田徳子『きらめきのサフィール

 

「狂って以来、俺、自分のことを泥棒と思ってるんです。イヲ(注・イヲ=魚)をとる泥棒。以前はれっきとした「漁業」と思っていたばってんが。社会という枠の内では漁業でいいんだけど、その外に出ると泥棒。いっぺんこの枠自体を疑ってみる必要がある。枠をとっぱらったところでは、みんな多かれ少なかれ泥棒じゃないですか。スーパーで買えばそれで合法、と言ってすむ問題じゃない。スーパーなんていうなれば、泥棒たちの分配センターで、銭はそこの通行証みたいなものでしょ。我々はそこから持ちきれないくらい、冷蔵庫に入りきらず腐らすくらい、いっぱいものをさげてきて、涼しい顔で金は払いました、と言ってる。」緒方正人 『常世の舟を漕ぎて』