降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

欲望形成と学び

 

 

 

無自覚なものを自覚化していく個人、の陥穽は、殻が厚くなることではないかなと思う。そこで想定されているのは、意識的な主体としての「変わらない私」。その私に経験や知識やらが蓄積されていく。

 

その変わらない主体を想定すると、結果として変化しにくくなるだろうと思う。この私という殻が厚くなることによって柔軟さと別様であり得た様々な可能性は奪われていく。他に色んな条件があるだろうに、自分の意識的なコントロールによって「成功」したと思い込むと、その経験は殻を厚くし、執着が強くなるし、しばしその体験を絶対化してしまう。

 

すると同じことを繰り返そうとするので、もう将来的な停滞が約束されているようなもの。

 

インプロ指導者のキース・ジョンストンが何千枚も似顔絵を書いていて、自分がスランプになるときのパターンを発見したという。スランプになる直前には毎回、自分でとてもよくできたと思う絵を描いていたそうだ。そういうつもりがなくても成功体験は無自覚・無分別に繰り返してしまう。それは状況や今の状態を見ないということにつながっている。

 

柔軟さ、自分や状況への応答性は、殻にすぎない私と距離をとることと強く関わっている。殻でしかない自分に蓄積していくイメージは、停滞を必然的に招くだろう。うまくやっている人が自分の手柄にせず「謙虚」だというのもここと関係があると思う。自我肥大はパフォーマンスの低下につながる。

 

学びとは、更新であると思う。更新された時、そこにいるわたしはそれまでの自分とは別のものになっている。だから「変わらない私」に蓄積はされていない。「私」という殻が変わり、それまでのものが消えるのが学びであるのだから。

 

蓄積や達成が重視される社会だけれども、更新がおこれば世界の見え方は一新され、活力が流れこんでくる。結果としての蓄積を主とせず、その場その場の応答によって、更新をおこしていけば、生きることは新鮮なものになるだろう。

 

学ぶのに年齢は関係ないと言われる。蓄積や成果が学びのゴールなのであれば、学びは虚しい営みになるだろう。学びはより今を生きるためにある。蓄積や達成を絶対化すると、プロセスが犠牲になる。プロセスさえ動いていれば、周りも自分も変化していく。

 

面白いことに、更新も単に変わるというだけでなく、より自分や世界に対して応答的になる。より人間になっていくという方向性がある。

 

言葉をもった人は、言葉によって自分のなかに世界を取り入れる。しかしその世界は過去であり、記憶であり、既に決定されている。自分が世界をどのように理解するのか、人を理解するのか、生きることをどのように理解するのかは、この取り込んだ世界に決定されている。

 

そこは行き場のないメリーゴーランドだ。精神は世界を「所有」したかわりに、その世界の見え方の変わらなさに倦んでいき、更新がなければそれに絶望する。更新がなければ、自分がもっていた否定的結論が再確認されるだけだからだ。その変わらない見え方を更新していくことによって、精神は解放されていく。

 

体において血行がよい状態が常に更新されていれば、全身の活力が増すけれど、精神もまた似たところがあって、精神は気(持ち)の循環がもっともいい状態を常に求めている。気(持ち)の循環の最大化を求めている。

 

そして多分、その気の循環をもっとも停滞させる要因が言葉による世界の取り込みであって、記憶と過去にすぎない古い世界がいつまでも世界の見え方を規定し、精神に影響を与えていることだと思う。

 

欲望形成支援において生まれたものは、変わらない私に蓄積されるようなものではなく、今の自分を更新し、古い自分を逸脱していくような動きを持つだろうと思う。古くなった構造(つまり自分という殻)の規定から逸脱していく。それが学びであり、更新であるだろうと思う。

 

自分という古い構造によって圧迫されているものがある。それはひずみを生んでおり、それは同時に変わるためのエネルギーがためられているということでもある。主体は、私という殻ではなく、気の循環の最大化を求める自律的な運きであるのだろうと思う。

 

だから自分という既知のものしか知らないものでは発想することも、生み出すこともできないものが、更新に向けた動きからは生まれてくる。