降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「適応」ではなく主体化へ

小沢牧子さんは『「心の専門家」はいらない』において、臨床心理学、心理カウンセリングが問題を個人の心のなかのこととして矮小化してしまうこと、閉じ込めてしまうことに無自覚なことに警鐘を鳴らしている。

 

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これがどういうことなのかわかるだろうか。これは電通の高橋まつりさん過労死事件のように、異常な社会や環境のほうが根本的な問題であっても、不適応や何がしかの症状を呈することは、本人の心の問題(その状況でも症状を呈さない人はいる。)であって、つまるところその心が状況適応できるようになればいいという見えない前提への批判だ。

 

問題は個人の心のなかにあり、それが解決されればその人は治療され、適応ができるという考え方のおかしさは、たとえば『はだしのゲン』のなかでみることができる。

戦時下においては、むしろ理性を保っている人のほうが生きづらく、抑圧され、国家と一体化し、どんどんと一体化していない人を見つけだし、通報するような抑圧を「普通の人」がしはじめる。

 

問題を個人の心のなかのこととすることのおかしさは、今ある社会や環境を前提視して、そこへ順応することに無批判であることだ。戦時下で国家と一体化して適応し、心理的に「健康」な人ならば心理カウンセリングの必要はないのだから。

 

問題が自分の心のなかにあると思わされた人は社会や環境の本来的にあるべき姿を自分なりに想像してみることも、変化させようと働きかけることもなくなり、「心の専門家」やその知見が自分の問題を解決してくれると思うようになり、より生きやすくなるために「自己肯定感をあげるワークショップ」みたいなものに行けばいいのだとなるだろう。

 

僕は心理カウンセリングに行くなと言っているのではない。切実な苦しみを抱える人はその緩和のためにありとあらゆることを試行し探せばいいのであり、心理カウセリングを選択肢から除外する必要はないだろう。

 

しかし、こうしたら苦しみが緩和しますよという提示をする前に、まず言われなければいけないことがあると思う。

 

一人一人には、自分に必要な体験が何かを自分で確かめていくプロセスが生きている間ずっと必要であること。その確かめがすすむための環境を自分で調整する存在になること。そして自分に必要な体験を感じはじめれば、また環境に働きかけ、その体験を自分に与えること。

 

この試行錯誤の繰り返しによって、はじめてその人がその人になっていくこと。この終わりないプロセスにあることが個人を主体化させること。そのプロセスにはいることができなかったり、自分から拒否するならば、主体化から疎外されること。移行状態にあるとき、その人は主体であるといえるだろう。

 

主体化が疎外されたとき、その人は何かしがみつけるものに依存し、環境から自分に内在化された価値観を変えることができず、不満足に生きなければならなくなる。

 

必要な体験を自分に与える主体になっていくことが生きることに充実感や希望をもたらすこと。それが世界への信頼となっていくこと。

 

この終わりのないプロセスに入っていくことは、自分自身に応答することであり、そのことによって内在化した価値観が変容していく。精神はより寛容でより自由になっていく。

 

このことは、生きづらさを感じ、自分がどう生きていけばいいのかという問いに切実に直面している人に伝えたいと思う。

 

心のなかだけをなんとかしようとしても、どこにも行かない。今の自分の価値観や感受性が更新されるとき、また新しいものが見えてくる。今正しいと思うこと、今見えるゴール(それが自分を苦しめているのが多いと思うけれど。)は、自分が変わったとき別のものになっている。

 

自分の感受性から遠く離れていても、少しずつ近づいていくことでそれはより感じやすくなっていく。諦めず、少しでも自分が底から思っていること、感じていることに試行錯誤の応答をしていく。応答できたかどうかは、如実に自分の充実感や変化に反映される。応答していくことで、自分に内在化された縛りや抑圧、価値観が更新され精神は解放されていく。

このことを踏まえて社会を見てみよう。資本主義社会においては、自分で試行錯誤して自分で発見したり、自分で何かができるようになることは特に必要がない。どの分野にも専門家やプロがいて、お金さえあれば、その人たちにお任せできる。しかし、そのせいで、一人一人が世界と直接やりとりしながら自分の思考や感受性を更新していく主体化のプロセスが奪われている。

社会もまた一人一人に無力な消費者になってもらったほうが自分たちの権益を増すにあたって都合がいい。『ナリワイをつくる』の著者の伊藤洋志さんは、家の床を自分たちではり直しできるようになるワークショップをされているけれど、床はりにおいて、多くの人にとって床をはる経験がなくなるほど、目(リテラシー)がなくなってしまい、業者は自分たちの儲け優先で適当な床はりを横行させるということだった。

社会はお金儲けが優先なので、個々人にはより弱く無力になってもらい、より多くのニーズを出してもらい、お金を出してもらう構造が固定化されればいい。そうすると弱くなった個々人は、より自分たちの言うことを聞かざるを得ない。

資本主義社会においては、多くの人がその人たる充実や生に向かっていかないように、より強いものに従属を強める傾向を加速させるように社会が構造化されていく。この社会の歪みの傾向を自覚している専門家もいれば、無自覚な専門家もいる。

いずれにせよ、自分の経済、自分たちの経済圏の維持拡大がどこの集団にとっても重要なのだから、こと心の問題を扱っている人たちだけが公正中立なことはないだろう。個々人においては、自覚的で良心的でも、システムとしては経済圏やシェアの維持拡大が求められるのだから、全体としては、個々人の無力化、主体化の疎外に加担せざるを得ない。

世界への信頼は、自分の底で感じていること、体験したいと思っていることを、自分に提供することで回復していく。人が言っていること、評価されることではなく、自分とともにある感覚、プロセスに応答していく。

応答は大抵の場合、今まで自分が知っていることや安全確実(しかし退屈で苦痛)な領域に退避することではない、世界への直接の接触や踏み出しを求めている。しかし必ずしもいきなり大きなことをする必要はなく、ちいさな応答も確実にそれに応じたちいさな変化をもたらす。

学部の臨床心理学科に所属していたころから20年弱たった今はこう見える。問題とは、古い社会や環境が更新されるべく現れるものなのだと。社会や環境は、それが成り立たなくなるような亀裂や停滞がおこされなければ、誰かに過度の負担をかけながらもずっとそのままの体制でとどまろうとする傾向がある。

そしてその体制の偏りは、誰かに集中する。その誰かは環境全体の歪さを一身に、自分ごととして引き受ける存在になる。その人のそれまでの生は、もはや同じようには続かず、新しい生きかたを手繰り寄せなければいけなくなる。その人(あるいはその人を生かそうとする人)は生きていこうとして、周りの環境に働きかけていく。その時、周りにも応答の態度があれば、その環境は更新されていく。

問題を個人の内にとどめてしまうと、環境は更新の機会を失ってしまう。環境は更新されずまた別の人が犠牲になり、同じことが繰り返されるだろう。

環境の体制を自然に更新されるものとみるのは楽観的に過ぎる。それは非常に変わりにくい。誰かの既得権益と直結しているからだ。変えようとすると、大きな抵抗や抑圧が返ってくるだろう。だから多くの人はそこを手がけることを躊躇する。しかし、もはやそこがそのままではやっていけなくなった人は向き合うしかない。自分の生がそこにかかっており、もはや後に下がることはできなくなっているから。

問題を一身に引き受けた人は、その人がそういうつもりでなくても、環境の体制がいびつさを自分ごととしない他の人の代わりに、自分ごととして引き受けている。「迷惑」をかけているのではなく、自分が犠牲になって、体制のいびつさの「罪」を代わりに引き受けている。

今の自分が生きていくためには、環境は更新されなければならない。自分が生きていくためには、否応のない「仕事」が課せられる。受難以外の何者でもないが、もしその人が生きていくためにその「仕事」を続けるのならば、その人は人として深く回復していく。そしてその人の回復は環境の回復とも連動する。回復は個人内で完結することではないし、個人内に閉じさせることは環境の自殺行為でもある。

個人と環境は一体のものとして存在している。それをどちらかだけの問題に帰することは、真の問題の放置であり、状況をさらに深刻化させる。受難した人は、その人がそのつもりでなくても、環境が変わるために犠牲となって問題を顕在化させているのであり、公共的存在といえる。

受難した人は、目先の幸せではなく、自分が深く救われることを求めざるを得ない。目先の幸せを求めても、この競争社会で受難した自分に残されているものはないからだ。目先のものをより多く自分のものにしようとするなら、人を蹴落とすこと抜きにはできない。しかし、人が本当に救われるとはどういうことかを考え、自分ごととして求めている人は自分と周りを共に救っていくことをはじめる。

受難にあった人、生きづらい人は、強制的に公共的な存在になる。自分を救っていくためには、すでに用意されたような道ではなく、それまでなかった道をわずかであっても自分で開拓していくしかなくなる。その試練には、誰もが応答し切れるわけでもない。しかし、応答していくことで自分を乖離させた生ではないあり方に近づいていくことはできる。

 

生きづらいスタート地点で何もわからなくても、何を得ていなくても、応答することで、自分のエネルギーは増えていく。血行がよくなるように、精神の循環がよくなればエネルギーは増える。

 

そしてその状態で考えること、できることがある。変化した自分がまた変化を招いていく。今の自分の状態や価値観で未来のことを決定しようとしたり、それができると考えること自体が馬鹿馬鹿しくなる。

 

絶望は世界自体の変わらなさによってもたらされるようで、実のところは自分の既知の世界(それは全てが決まってしまった世界だ。)に閉じ込められ、そこから抜けていくことができないと完全に信じ込んでしまった時にはおとずれる。

 

応答は既知の世界を更新する。希望の感覚はその更新によって生まれる。