降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

抑圧の相互解放のために

ある属性のマイノリティが別の属性のマイノリティへの抑圧にはまるで無自覚でしたい放題だったり、自覚していても平気だったりすることがある。またマジョリティに対してであれば、抑圧仕返すような結果になろうが、今までマジョリティがやってきたことを踏まえるならば、問題ないだろう、仕返しぐらいしても当然と高を括るような場合もある。

 

筋からいえば、抑圧からの相互の解放が目指されるところなのであって、自分(たち)だけ安全地帯に入ればそれでよし、他の人を抑圧して気晴らししてもよしというのであれば、それまでのその人の抑圧の批判には別に何の正当性もなかったということになるだろう。

 

そんな心性なら、抑圧されていた時代からその人は自分より弱い周りを抑圧していたのだろうなと思われ、その人は今も昔も一貫して抑圧者だったのだろうと思える。

 

フレイレは被抑圧者がもし自身のうちに内面化された抑圧を解放しなければ、被抑圧者は単に自分が抑圧者そのものになることを求めると指摘する。

 

フレイレはさらに、ある被抑圧者の社会的ポジションが実際に高くなり、抑圧者側にたてるようになれば、もともと抑圧者の立場にいた人より苛烈な抑圧を行うようになるとも述べている。自分が「価値」ある人間であることを証明するためには、その「価値」のない人と自分とを継続的に、はっきりと差別化しないと安心できないのだ。世間を見渡せば確かにその実例を見るに事欠かない。

 

世間の建前はともかく、自分にとって何が価値であるのか。働いていることか、「自立」していることか、能力が高いことか、人に「迷惑」をかけないことなのか。

 

抑圧の内面化とはつまるところは、こうすべき、こうあるべきという価値観ということになる。この条件を満たせば、自分には価値がある、自分は「一人前」の立派な人間であるという条件つきの「人間」認定だ。

 

ほとんど全ての人は、「自分は〜ができている」、「自分は〜であれている」という条件つきの肯定をかき集めて自分を保っているわけであるので、表面化させていなくても、潜在的な抑圧者であるといえるだろうと思う。

 

残念ながら言葉というのは、逆のもの、そうでないものに存在してもらっていないと成り立たない。言葉を介して自分が「幸せ」である、「価値」があると認識するのは比較を通してであり、「幸せ」でない人、「価値」がない人や存在をこの世界のどこかに設定しなければ、実感することができない。

 

ただ、自分がそういうふうな設定をしていることには無自覚でいられるので、天真爛漫に同じ基準を共有できない人を否定していることが多い。しかしその無自覚な人の否定は、言われた側の時間を止めてしまう。その人は、その人として自由闊達にその人の時間を展開していくはずだったのに、その否定を刻み込まれることによって、その場所にいつまでも引き戻され、留まってしまう。

 

さらには、もしその価値観自体からの解放の契機がなければ、その無自覚な人の否定は、相手の人のなかに、その条件つきの価値観を内面化させてしまう。そしてそれがまた負の連鎖を生んでいく。

 

つまるところ抑圧は、ある人がどのような条件つきの「人間認定」の価値観を自身に内在化しているかということになると思う。

 

人は素晴らしい、最高の価値があるという言葉で納得し、それで成り立つ人もいるかもしれないけれど、それを空虚なごまかしだと感じる人もいる。世間では実際に素晴らしい、価値があると大仰にいう人ほど、そういいながら実際には自分に都合のいい範囲の条件つきでしか認めていない場合も多い。

 

僕は人間がどのように変化しうるかということに関心をもち、そのありようを探ってきた。そして、人が変容していく場では(価値観自体が変わる、解放されるともいえるかもしれない。)、人は普段からこうでなければいけないとか、あるべき姿への強迫が打ち消される環境設定がされていることに気づいた。

 

価値とか意味とか、世間では肯定的に思われているようなもの自体が実はその人に必要な変化をとめている。先に述べたように、価値があるとは、価値がない存在を必要とする。気づいていなくても、そこには比較があり、競争がある。無意識であっても、精神はそれに束縛されている。

 

あなたは〜だから価値があるといわれるとき、真に受ければ、その条件を維持できるかどうかという不安がおとずれる。その条件を維持できるのはずっとではないかもしれない。すると、条件が達成されない時の自分はどうなるのか。

 

『〜だから価値がある」という「認定」は強迫と不安をもたらすし、そもそも条件を達成しないと認めないというメッセージも含まれるため、脅しでもある。細かいことを言うようだけれども、意識的にはそんな意味合いに無自覚であっても、精神は自動的に束縛され、かたまってしまう。

 

「無条件で素晴らしい」、「無条件で価値がある」というのは、代替的な言い方であってベストではないと思う。素晴らしくないといけないのか、価値がないといけないのか、という強迫がまだくるだろう。

 

素晴らしくなくてもいいし、価値がなくてもいい。その時に精神は安心する。価値や意味、そしてそういうものを生み出すそもそもの基準の持ち込みを許さず、意味や価値を判断する基準そのものが打ち消されるところで、精神は安心する。

 

そしてその時、価値観の変容のプロセスが動きだす。その人の時間が動きだす。人が内在させていた価値観(抑圧)から解放されていく。

 

抑圧されている側から抑圧する側になって、気散じや憂さ晴らしはできても、それだけでは精神の解放はできない。同じ苦しみを抱えているからすぐにまた憂さ晴らしが必要になる。それに加え、自分が余計に苛烈な抑圧者になってしまう。

 

目指すところは、内在化された価値観(抑圧)からの解放だ。そして、人が内在化された価値観から解放されていく場所は、「あなたは〜だから価値がある、素晴らしい」というような「意味」や「価値」が充満したところではなく、そのような評価づけを生み出す基準そのものが打ち消された場所だ。

 

積極的な価値づけとか、価値を高めることではなく、価値や意味を派生させる基準自体が打ち消されることが人の変容のプロセスの時間を動かしていく。

 

人のなかの、内在化した価値観の解放をめざすのであれば、ある人に対する働きかけは、その人のもっている価値観の強迫が打ち消されるような働きかけであることが求められると思う。

 

よっぽど自信を失っている人にカンフル剤的に働きかけなければいけないのでなければ、褒めて条件づけしたり、その人の一部のいいところだけを評価することは肯定的な面もあるかもしれない一方で、その人の強迫を高めもする。

 

それよりも、その人が抱えている強迫が生み出される基準自体を打ち消すようなことができるなら、そのほうがその人は自然にその人の時間を動かしていきやすくなるだろうと思う。

 

冒頭に戻り、あるマイノリティが自分たちだけがパスできる条件をもって、他の人を自覚的、あるいは無自覚に否定し、抑圧するということはよくある。潜在的に全ての人は抑圧者なのであり、そもそも「〜だから自分には価値がある」というところに自分の安定を依っているものだから。

 

抑圧とは『〜だから価値がある」という価値観そのものを基礎している。よって、もしお互いを内在化した価値観から解放しようと思うのであれば、なんであれ、人がいるところで「あなたは(あるいは誰かは)〜だから価値がある(あるいは、ない)」という評価づけ、そしてその評価づけを生むようなそもそもの基準自体が浮かび上がるようなことをしない、やりとりに持ち出さないということが非常に大切なこととして踏まえられる必要があると思う。

 

このことに非常に近いのが「人権」であると思っている。正直なところ、自分自身も学生の頃などは、人権という言葉を空虚なスローガンとしてしか受けとってなかったけれど、人権を守るという時に実際にされていることは、何かの条件によってその人に対する態度が左右されないこと、人の(商品)価値を決める基準のようなものをその人にあてはめないことであると思う。

 

人は人として対応されなければ人になっていけない。そして、人を人として対応することを通してでなければ、自分も人になっていけない。舶来の言葉でなくても「人が人になる」というときは、お互いが条件をつけた上で人を人と認めるということをやめていくということであり、蓄積された価値観(抑圧)を一つずつ取り除いて、条件つきの自分や相手の価値から解放されていくということだと思う。

 

抽象的にすぎると思われるかもしれないけれど、僕はこうしたらいけない、こういう振る舞いはNGと各マイノリティごとに知識的に積み上げていくやり方もある一方で、そもそも、人が人として扱われるとはどういうことか(僕としてはそれは人権とは何かという問いだと思うのだけれど。)を共に問うていく場が必要だと思う。

 

そこを抜きにしてしまうと、お互いを解放していくという根本的な態度やそこに向ける問いが忘れられ、抑圧されていた人が抑圧するということが繰り返されることになるのではないかと思う。