降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

自分の価値を高めるのか ゆるすのか

畑の共同作業日だったけれど、雨がひどく降ってきて土もべちょべちょに濡れたので、作業は中止して午後から第4回関西当事者研究交流集会へ。

 

cocopit.net

 

ある分野のマイノリティが、別の分野のマイノリティに対して差別や軽視を持っていないかというと、全くそんなことはないということはよく言及されている。

 

自分が何かのマイノリティだからといって、他のマイノリティにもやさしい価値観を持っていたりということはない。むしろ世間的には自分の価値が低く扱われるために、自動的に他のところで補おう、盛り返そうとマッチョになりがちですらある。

 

マッチョの何が問題かというと、自分だけが勝手にムキムキ(厳しい価値観を持つなど)になるならいいのだけど、それではおさまらず他の人に対する蔑視が有形無形に表現されて周りに「被害」がおよぶところ。自分が高まるために、そうでない人や物事を何度でも否定しないと、自分の価値が確認できず、高めた価値を維持できない。

 

差別や蔑視の問題は根深い。関西当事者研究交流集会に綺羅星のようにあらわれて会場を沸かせる非モテ研の人たちの発表を聞いた人たちが、無自覚な上から目線や「モテるべき」といった価値観を非モテ研の人たちに示すことがあったというフィードバックがあった。

 

非モテ研の発表が面白く、人の心を動かすのは、傷つきやすさをあえて隠さないからなのであって、それをテレビの芸人を消費する気持ちみたいになって口をきいたり、お前は実際はモテるだろうとか、褒め言葉のつもりでも、人の価値を鑑定するような、点数をつけるような無礼をしてはいけない。

 

お前は何点ぐらいだとかいうようなこと、どの部分は一人前だとかいうことを、どんなふうに柔らかく言おうと、それは尊厳の踏みにじりであって、その人の時間を止めてしまう。残念ながらこの感覚は一般社会にはあまり浸透していないけれども。

 

こういうと厳しい社会の水準こそが普通=あるべき姿であって、お前が変わらないといけないのだというマッチョが普通にすぐ現れるほどだ。前述のように、マッチョは自分より下の人、批判する人を必要としていて、餌に食いつくように、居丈高に自分のムキムキ具合こそ普通だ、お前が悪い、足りないと言いにきて自分を高めようとする。(本人の意識的には本気で「教えて」あげているのだけれど。)

 

回復は、自分の価値を高めることではなく、内在化されたあるべき姿から解放されていくところにある。自分の価値を高めようとすると、相対的に何かや誰かの価値を下げなければいけない。

 

では、どの方向に行くのいいのか。ゆるす方向だと思う。自分の価値を高めるのではなく、無自覚だったあるべき姿を発見し、解放されること。それが自分をゆるすということになると思う。高めるのではなく、ゆるす方向に行く。ゆるしたら自堕落になると思うかもしれないけれど、まだ発見していなかった強迫が取れたとき、人はぐるぐるとした停滞から抜け出す。

 

そしてその発見がおこる場所は、人が人として尊厳をもって対応されるところだ。馬鹿にされるところ、下に見られるところ、そういうところでは、人はそのような発見をしていけない。

 

今の一般社会の水準がどうであれ、正の循環を自分たちの周りからおこしていけばいい。

 

僕自身の人間観は30年前からは大分変わった。今の人間観は、人は自動的に殻を作ってしまい、その殻に疎外されてしまう存在なのだというもの。ネガティブに思われるかもしれないけれど、自分や人の価値を高めるのではなく、ゆるす方向に視点が行くことで、今ある停滞を抜けていけると僕は思う。

 

ある集団もごく自然に他人の痛みに無自覚になっていきがちだと思う。自分たちの痛み以外のことには気づかなくなっていく。僕はその自動的な疎外が止まるには「亀裂」が必要なのだと思っている。その疎外によって傷ついた人が上に立たず、水平な位置からその傷つきを表現するとき、無自覚だった人も震える。

 

それは無自覚だった人にとっては、傷つきとして体験される。しかし、その傷つきが場を変える。奥田知志さんは、人は健全に傷つけあうことが必要、と指摘している。自分が無傷のまま、人だけを傷つけようとしてはいけない。しかし、自分の傷つきをもって、その傷つきを人を伝えるとき、それは人を人にしていくと思う。

 

関西当事者研究交流集会、もう一つ印象的だったのがライブ当事者研究の一場面。

 

会場からの様々な応答、アドバイス、意見などが寄せられていた。そのなかにはその問題を共有していない自分でも、とても心をうつものもあった。発表者は最後、もしかしたら言わないままですましたかもしれなかった心のつかえの部分を話せたのではないかなと思わせるところがあった。様々な方からの真摯な応答は、それだけ発表者に届くところがあったのではないかなと思う。

 

一方で会場とのやりとり、個人的な感覚だけれど、危なかっしいように思えるのもあった。〜だったら〜すべき、みたいなところとか、チャンスは今ぐらいしかないかも的な、応援というより本人にその意図はないがちょっと焦らせるようなものなど。会場の雰囲気でカバー、というようなことができない発言ももしかしたらされうるのでは、と思った。

 

大会場で多数の人がくるというとき、良くも悪くも統一的な意識が共有されていないので、あまりどう応答したらいいかとか慣れていない人が、無自覚に深い傷を与える発言はおこりうると思う。

 

自分もあまりこういう大きな場に慣れていないので、どうとらえていいかわからず。いや発表者は結構言われても大丈夫な人が上がっているとか、当事者研究重ねている人は、結構打たれ強くなっていたり、スルーできるとか、そういうこともあるのかもしれないけれど。

 

歌があったりして、会場全体での一体感みたいなものも追求されたのかもしれない。個々で当事者研究をやっている人たち、そしてその人たちが集まるとこにきたいと思う人たち、支援者。そういう人たちが集まる時に、いいかたちとは何だろうとあらためて思った。

 

そうそう、あとちょっと非モテ研に肩入れしすぎかもしれないけれど、無自覚な上から目線に気づく演劇とか、ワークショップとか、そういうことを非モテ研にやってもらってもいいんじゃないかなと思った。