降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「奪われた刀」としての科学技術

山本義隆氏によれば、現在では「科学技術」と合成語になり、一つのものとして考えられている「科学」と「技術」はそもそも別々のものとしてありました。

 

DIY読書会でも発表していただいた角南さんのブログに本の引用の文章など含め詳しく書かれてます。角南さんご自身が経験された当時の時代感覚もあわせて書かれているのでそれも参考になります。

dohokids.blogspot.com

 

「技術」は職人のものでしたが、「科学技術」として合成されることによって、職人は時代を転換させる最前線の実践者でもあったところから、指示を受け、注文通りの品をつくるだけの、創造性のない下請けとして位置づけられるようになりました。創造的にデザインする建築家と作業する大工といった感じでしょうか。

 

法隆寺の宮大工の本を読むと、飛鳥の時代からの建築を探究している宮大工西岡常一氏に対して、研究者は改修はああしろ、こうしろと命令しています。釘を使えばそこから腐るため、釘を使わない工法が考えられているのに、研究者は自分がお勉強した最近の建築法のほうが上だと思っており、命令に従うよう要求します。

 

www.shinchosha.co.jp

 

この事例が端的に示すのは、「科学技術」という合成語は「職人」を思想や哲学、つまり考え、真に創造する「頭」を持たない存在だと位置づけ、その一方で真に思考し、時代を切り開く自分たちを区別し、特権化する機能をもっていたということでしょう。

 

(このことは当事者には考えられる頭、状況や時代を変えていく頭があるととらえなかった当事者研究以前の状況とも通じると思います。)

 

明治期、もと武士階級の支配者層にとっては、「科学」と「技術」こそが西欧に対して自分の国が屈辱を舐めなければいけなかった決定的な原因として認識されたのでしょう。その屈辱は、西欧に下に扱われることだけでなく、自分たちが「そこらへん」の百姓や職人、商人と同じ身分にされたということでもあったかと思います。

 

しかし、自分たちの力を維持し、あわよくば復活させるためにはその恨みの象徴である「科学」と「技術」を認めないわけにはいきませんでした。

 

よって、支配者層は「科学」と「技術」によって地に落とされた屈辱を自らのうちに秘めつつ、それゆえにより一層、邁進する転向者としてその「科学」と「技術」を自らの権力とプライドを復活させるものとして位置づけ、資力を注入してきました。

 

明治前期に上級学校に進んだのはほとんどが士族の子弟で、明治期の技術者はその大半が士族出身者で占められていた。しかし徳川の時代に「士農工商」の身分制ヒエラルキーの最上部にいた士族は、職人や商人の仕事を蔑んでいたのであり、士族に根強かったこのような階級的偏見を払拭するには、工部大学校、のちには帝国大学工科大学で教育されることになる技術を、舶来のものとして箔をつけ、お上のものとして権威づけ、こうして教育される技術者を、技術エリート・技術士官として在来の職人から差別化しなければならなかった。山本義隆『近代日本一五〇年』

 

「科学」と「技術」を合成し、一体とすることで、特権階級は四民平等によって否定されたプライドを維持し、同時に自分たちこそ考えられる頭であり、それ以外の人たちは自分たちが考えたことに従う手足なのであると位置づけることができました。

 

いわば「科学技術」とは、プライドを傷つけられ、地に落とされた武士階級の「奪われた刀」だったのではないかと思います。彼らは帝国大学において「科学技術」を担当する工学部の教授となりました。工学部こそが武士だったものの次のメインストリームになりました。

 

50年前、宇井純さんが東大で市民を対象に自主講座を開催したのは、工学部教授たちは工学部助手である宇井さんが大学として講座を開くことを拒否したためです。当時関わった人は、教授たちの自分たちの神聖なる教壇を市民の泥靴で汚されることの憤懣はいかばかりだったかという趣旨のことを述べています。

 

原爆が落とされた直後の広島にはいった帝国大学の物理学者は、戦争の誤りを認めるよりも先に、自分たちの(科学技術発展の)努力がいたらなかったために、このような惨状を招いたことを嘆いたそうです。戦後、戦争に協力した人文系の研究者たちはその責任や研究の妥当性を問われましたが、理工学部系はその根本的な姿勢の反省を問われることはなく、そのままの精神性が維持されているようです。

 

日本では、もともと別々の分野だった「科学」と「技術」を合成することによって、その名のもとに、失われた特権階級を事実上スライドさせ、自分たちが支配層のままでいる地盤が作られました。

 

「科学技術」とは自分たちが敗北した当の相手でありながら、同時に自分たちの復権を夢想させる唯一の可能性であり、それは彼らのプライドと権力を取り戻すための次の「刀」であり、しるしでした。

 

それは、自分たちが認定しないと、科学ではなく迷信であると決められるような位置に自分たちを設定しました。何に意味があって、何に意味がないのか、何が学びであり、何が教育であるのかを決められるのは私たちだとしました。

 

かつては「女性」が政治的なこと、妥当なことを考えることができないとされ、被選挙権すら認められていませんでした。

 

それはやがて形式上は変えられましたが、今も市井の人には何が正しくて何が間違っているか、真実を見極められる力はないとされています。

 

それを認定するのは知を担当する権威である自分たちだというわけです。実際的な方針を考えだし、「大衆」を導けるのも、知と真実を担当する自分たちなのです。

 

当事者研究はその構造、その抑圧に対する反逆といえるでしょう。当事者研究は問題を自分の心のうちだけのものとせず、自分とともに周りの人が変わっていく営みであるからです。)

 

日本の女性の地位が144か国の調査対象国の中で114位なのはなぜでしょうか。新しい知識は「先進国」と自称する日本に全くはいってこないでしょうか。そうではないのです。つまるところ、新しい知識や情報がはいってきたとしても、それを認定したり、取り入れることを今現在に力を持つ人たちが拒否しているのです。

 

あるアイデアが素晴らしいものであれば、多くの人がそのアイデアをとりいれ、普及していくのではないのです。より新しく妥当な知見がシェアされれば、それが風のように社会を通って影響を与えていくのではないのです。

 

実際には、力と力のせめぎ合いがあり、力を持つものが自分に都合の悪いものはとりいれないのです。すると自然に更新される時間は止まり、人々の頭の時間も止まるのだと思います。力をもつものがいることに対し、より押し返す力、押し流す力が強くなったとき、ようやく状況は変わるのだと思います。

 

その状況を変えようと、靴の革を一度に変えるように、一斉に社会を変えようとする試みはこれまでも失敗してきました。もちろん、それぞれの考え方によるそれぞれのアプローチを否定するものではありませんが、焦点化するところがあると思っています。

 

それは大勢を強制的にまとめ上げ、指示通りの行動をさせることではなく、一人一人が自分のうちに内面化された抑圧を、世界や周りの人との直接のやりとりによって更新していく場をもつことです。それはちいさな学びの場をそれぞれの人がそれぞれの場所につくりだしていくことだと思います。

 

鶴見俊輔はサークルの研究において、そういうことを既に発見していました。ところが世間では研究者とか、よく知っている人とか、そういう1割にも満たない人が受験前に暗記した文脈を持たない知識を持っているぐらいで、発見された知見が維持されたり、ましてや運用されているような風景は見当たりません。

 

なぜすでに発見された実践的な蓄積や知見は忘れられ、消えていくのか。この理由を考えたときに、力というところにたどりつきました。「誰」がそれを妥当だ、意味がある、素晴らしいと認めるのか。それを決める位置を占めている人が決めるのです。そしてその位置にいる人は、だいたい社会がどう解放されるかよりも、その決められる位置を自分が占めることを目的にしているのです。

 

なので、大きいシステムを変えたらみんなが一斉に変わるし、一番大きく社会を変えられるよ、という考えから脱して、自分たちそれぞれで小さく身の回りの抑圧や常識を乗り越えていくというのが、遠回りながらも最短の変化への道であるのかなと思っています。