降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

週プレ「キン肉マン」の考察 

週プレのキン肉マン。ジャンプ連載当時は雑魚扱いで散々な役所にまわされ報われなかった数々の超人たちがそれぞれの過去を挽回していくこの物語のあり方をなんと呼べばいいだろう? 

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キン肉マンは今流行になるような面白く新しいマンガである必要がない。作者自身が送る作品世界へそして自分自身へのはなむけのようだ。

 

Wikipediaよるとキン肉マンは、1979年に連載を開始した。当初は稚拙であるとされ編集部内でも評判がよくなかったが、途中からバトル重視のプロレスマンガに路線を変え、大ヒット。

 

僕の記憶では最初は単なるギャグだけでキン肉マン自身もあまり強くもなかったのだが、なぜか予選を勝ち上がり、ロビンマスクというチャンピオンで貴族で紳士といった感じのレスラーと決勝戦で闘うことになる。

 

ロビンマスクは、人間性においても実力においても、また家柄のようなところにおいてもどこにも隙がない「完璧」なキャラ。一方、キン肉マンは親に豚と間違われて地球に捨てられ、貧乏で性格も怠惰でひがみっぽく、かっこ悪いという3拍子が揃ったキャラ。

 

だが、そのキン肉マンは、ロビンマスクの無自覚だった自分自身へのおごりをつき、勝利をおさめる。おそらく順風満帆なエリートであることが自分のアイデンティティであったロビンマスクは、頂点から奈落へと落ち、ならず者に加担してまでキン肉マンへの復讐を遂げようとする。

 

ロビンとの闘いのころから、ほぼふざけるばかりのギャグマンガだったところに、人間の深い苦しみが描かれるようになった。そしてエリートと落伍者、ろくでなしが出会い、闘いを通して変わっていくというテーマが現れる。

 

物語では、ロビンマスクテリーマンというエリートたちが不運(キン肉マンとの闘いなども含む。)に遭い、転落し、失意に溺れていく。

 

なんちゃって正義の味方を気取るが実際はほぼろくでなしのキン肉マンだったが、目の前で弱いものが虐げられることは許さない態度を当初より持っており、出会う相手たちの人間としての苦しみに直面し、闘いを通して、時折、何もかもかなぐり捨てたような、裸の受けとめを見せるようになる。

 

エリートたちのその転落した痛みは、実は社会の最底辺で皆に馬鹿にされ屈辱を受けてきたキン肉マン自身が経験してきた痛みではなかったか。わがままで自分勝手なキン肉マンだが、相手が深い痛みをみせるとき、それに震え、一瞬、誰よりも真人間に戻るような、底の見えない不思議な姿を見せた。

 

キン肉マンは、それまで尊厳を備えた人間として扱われてこなかった。彼は人から馬鹿にされ、周りから鼻をつままれるようなダメな特徴を全て詰め込んだような存在だった。彼がドンキホーテばりに自身を世界を救うヒーローのようにみなすことも、自分を保つために残された数少ない選択肢だったのではないかとも思う。

 

そんな彼にとって、エリートたちが叩き落とされた苦しみを感じることは、傷つられた自分自身への深い共感でもあったのではないかと思う。

 

逆に、ロビンやテリーたちエリートにとっては、持つべきものを初めから何も持っていないのに生きていて、自身を取り繕うことをしない(できない)裸のキン肉マンの姿は彼らのそれまでの拘りを捨て、再生するために必要なモデルだったのではないかと思う。

 

キン肉マンは、ある段階までは、そのような人間の生々しい苦しみや痛み、人間として認められることと、認められないことというテーマを基盤に持っていたと思う。しかし、それがだんだんとバトルやその仕掛けの珍奇さの羅列に軸を移していったのではないかと思う。人間が抱え続けてきた痛み、打ち捨てられた人間の再生といった深いテーマは、だんだんと背景に沈み、表層的な描かれ方になった。

 

大人気だったキン肉マンだったが、1987年に終了後、作者であるゆでたまごは冬の時代に入った。Wikipediaによると、1990年台半ばになるともはや過去の人として扱われ、吉祥寺を歩いているところを通行人に「最近面白くねえんだよ!」と罵倒され頭を叩かれたという。

 

またキン肉マンの後日談「マッスル・リターンズ」をジャンプの出版社である集英社とは別の出版社である角川書店で出すにあたり、集英社はそれをあっさりと許可し、その後ゆでたまご集英社の少年ジャンプでキン肉マンをまた書きたいと申し出た際には「その必要はない」と断ったという。

 

だが「マッスル・リターンズ」への反響は大きく、その後プレイボーイ誌において描かれた「キン肉マンII世」は二度目のヒットとなり、リバイバル漫画ブームの先駆けとなったという。

 

僕自身は、完璧超人という存在が出たタッグマッチシリーズ以降は興味が続かず、読めなくなった。「II世」も同様でキン肉マンにはもう興味が持てないという感じだった。キン肉マンを見なくなって、それこそ30年が経って、全く関心は持ってなかったけれど、週プレのセックス依存症のマンガが面白かったのでそちらを見ているとキン肉マンも更新されていたので、なんとなくもう一度見てみた。

 

キン肉マンは前のままの世界のキン肉マンだった。世界の見方の斬新さみたいなことはなかった。「友情」の捉え方も古い型通りのものだった。

 

違っていたのは、今回はまるでエピローグに徹するかのようにかつて登場した超人たちをもう一度登場させ、ストーリー展開や演出のためだけに使われたような彼ら十分に思いを遂げさせるように描いていること。かつて出てきた時の設定を思い出させ、そしてその当時では考えられないような、活躍をさせる。

 

リバイバル漫画というものがなんであるのかを理解し、軸にそえた展開だといえるのだと思う。人間は「とむらい」を生きているという理解になった今の自分にとっては、このとむらいを主軸にするような展開はとても興味深かった。とむらいは自分のなかの止まった「時間」を動かしていくことともいえるかもしれない。

 

人の心のなかの「時間」は止まっている。「時間」が止まっている状態とは、ある記憶や刺激に対し、いつまでも同じ反応しかおきず、同じようにしか感じられないということだ。思考を通して確認される世界の「時間」は止まっている。

 

そこでは既に序列は決定され、何が何を意味するのかはもう決まっている。だから思考を続けたところで同じところをぐるぐる周り、既に持っていた結論にたどり着く。

 

その決まってしまった世界を更新するためには、あることの意味が決まってしまった時のリアリティをもう一度感じながら、別の体験をするということが必要だ。すると、世界の感じられ方は更新される。

 

人間は自分を投影して世界を把握しているので、キン肉マンのなかで雑魚扱いされていた超人もまた自分の一部分であるといえる。自分のなかで軽んじられ、ひずんだまま止められたものが、とむらわれ、更新される。手放される。

 

今登場しているブロッケンJr.もどちらかというとここ一番で主役として出るような役柄じゃない壁際の存在。その彼が主役キン肉マンにかわって大一番を引き受ける。今、物語は主役をキン肉マンからブロッケンJrをはじめとした脇役たちにゆずっている。そのような脇役たちをもう一度活躍させ、花をむけることが物語の展開の軸となっている。

 

人は自分のうちに止まった世界を取り込んでいるともいえる。その止まった世界とは物語であり、その物語を構成している部分部分はそれぞれの場所に対応するリアリティが喚起されるとき、動きだし、変わっていくことができる。

 

特定のリアリティを喚起すれば、自分の世界に対する感じ方、反応の仕方は変化する。精神のなかで止まった物語に対して、精神の外にある物語はリアリティを喚起し、同期させることができる。

 

作者自身がキン肉マンによって、絶頂を経験し、そしてそこからの転落を経験したのは初期のキン肉マンのテーマと相通じていると思う。表現されたものは、自分の知らないこれからのことを予言していることがある。そして今、作者は自分自身にとって最大の作品であり、分身であるキン肉マンという作品のなかの登場人物たちをとむらうことを通して、自身のうちにある止まった世界を動かし、更新しているのだと思う。

作品の世界観は昔からあまり変わっていない。しかし、今はそこに不思議な熱気があり、自律的な展開の動きがある。作者自身のプロセスが物語と同期しているのだと思う。